日本の「情」とはなんだろう

お粗末ながら、日本文化の主流に存在する日本の「情」について少し考えてみました。この「情」という言葉は非常に多くのニュアンスを含んだ言葉です。
ためしにgoo辞書から「情」の意味を調べてみましょう。


じょう〔ジヤウ〕【情】
1 物に感じて動く心の働き。感情。「憂国の―」「好悪の―」「知―意」
2 他人に対する思いやりの気持ち。なさけ。人情。「―の深い人」「―にもろい」
3 まごころ。誠意。
4 意地。
5 男女間の愛情。また、情欲。「夫婦の―」「―を交わす」
6 事情。いきさつ。「―を明かす」
7 おもむき。味わい。趣味。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/107347/m0u/%E6%83%85/


なるほど、つまり人間の心を元に生まれる感情を「情」だといっていると解釈してもいいでしょう。しかも悪い意味やイメージをこの定義からは感じ取れません。
つい2,3ヶ月前なのですが、BSNHKで戦前や戦後の映画が昼間に放送されていました。
にごりえ」、「無法松の一生」、「祇園姉妹」、などを見ていると、どうも現代日本で語られる「情」や辞書の意味とは違う「情」があるのではないかという思いに駆られました。
僕がその映画を見て感じた「情」には、「非情」も「無情」も取り込まれていたことです。

http://www.promane.jp/master/hayashi/2009/02/000742.html
僭越ながらこの記事を引用させてもらいますと、どうも「情」という存在を絶対視している。
そして物事を絶対視するなら、必ずポジティブな意味だけではなく、ネガティブな意味合いも裏側に潜んでいるのです。


戦前から戦後の始めの映画には、ポジティブな「情」もネガティブな「情」も入り混じりながら、苦しみ、楽しみ、泣いて、笑っている映画があった。
それこそ最低でも江戸時代から続く日本の「情」だったのではないか。


さらに付け加えてネガティブな日本の「情」を分析すると「無情」と「無常」の複雑な関係性があるのではないでしょうか。
「無情」という表層が「無常」という日本の深層に漂う深淵に亀裂を入れながら下っていくとき、降りてきた「無情」が「無常」と一度交じり合いながらもお互いの承認と違いを認識する。そののち「無常」は再び深淵の中を漂い、一方で「無常」と接した「無情」が表層に戻ってくる。
このあたりは哲学的な話になるので、この記事で掘り下がるつもりはありません。


今現代の日本で想像されている「情」というのはgooの辞書や林衛さんのブログのように、単純になさけであったり、理性と情という二元論の中で積極的なつながりの意味でつかわれること多いと僕は感じています。
この「情」というのはもしかすると昭和という時代の中ぐらいで変わっていったのではないかという疑問があります。
「非情」も「無情」も取り込まれた「情」を忘れていったのは、もしかするといわゆる団塊の世代なのではないかと愚考していますw
会社が長期的契約のもとの中間集団として機能して、そのストレスに酒を飲んで仲間と語らいながらタバコを吸い、そして徹夜で麻雀する。
この昭和臭さが「情」を情けやコミュニケーションにしてしまったために本来含んでいた「情」が変化していった。
このように考えると「情」が変化してきたことも、また今も「情」が現代社会で変化している可能性も見えてくるのではないでしょうか。


追記
あまりにも荒っぽい議論ですが、恥だと思いながらも誰かの思考のたたき台になればいいと思い書いてみました。「情」の起源に江戸時代を引っぱり出しましたが、江戸時代については石ノ森章太郎の「日本の歴史」を読んだくらいで詳しくわかっていません。さらにしっかりとした検討がつけれていないのですが、おそらく上で書いたような「情」が変化した時代は1960〜1970年頃でしょう。これは石原裕次郎主演の映画をみて、これまでの時代を変えようとしている精神を感じたからです。ここでは表層としての「情」を扱いましたが、日本の深い「情」についてはまだまだ研究の途中ですので、それについて意見のある方はコメントください。