昨日の記事に関して頂いたコメントとその応答

昨日アップした記事についてニコニコのブロマガでコメントを頂き、それについて応答しました。
転載許可を頂いたので本ブログでもアップしますが、正直気力が尽きたのでしばらくこの問題に立ち入りません。
ですので、これ以上のコメントを頂いても返答しませんので、ご理解のほどお願いいたします。

コメント

・minato様

体調にかかわらず自分のコメントからここまで書いてくださり、ありがとうございます!



 個が集団の一部というのはわかるのですが、個即集団となるには集団的個(集団としての個)と個的集団(個としての集団)がなければならないと思います。ただ無媒介に個から集団へと昇華するのはちょっと無理があります。

 サイバネティックスに考えるとしても、インプットはあくまで集団プラス環境であり、集団の意識や無意識はあくまで抽象的に個々の中で勝手に解釈して想像されたものだと思います。仮に集団的無意識が存在するとしても、それは死の世界のごとく認識できないレベルのもので、生きている側からすれば形式的なものだと思うのです。

 集団的無意識による「空気」の場合、集団的個は分かりますが、果たして個的集団というのがあるのでしょうか。

 個的集団というのがなければ、個人の行動一つ一つが集団に影響を与えるというよりも、個人が集団と同化しているから個即集団ということになって、個人の自由意志が否定されているように思えるのです。All for one ではなく、One for all 一辺倒になってしまうのは避けなければならないと思います。

 「空気」はあくまで個人が感じているもので、自由に書き換えることができるとしなければ、個人の自由、個人の存在意義が見失われてしまうのではないでしょうか。それとも、個人は「空気」を変える能力を持っていても、個人間の差異が集団的に見て切り捨てられるように、その能力は確率的に限りなく低いものとして切り捨てられてしまうのでしょうか。

 個があくまで集団のために奉仕するといった、集団に同化した成員とするのでは、個の存在意義があくまで集団形成のためになり、個人の自由意思として成り立つという構造自体が成り立たなくなってしまいます。極端に言ってしまえば、単純な集団への同化は究極の全体主義に他なりません。




 自分は無下に集団的無意識を否定しているわけではありません。それが抽象的ではなく具体的な構造として露わにならない限り、否定的な立場をとらざるを得ないのです。むしろ否定的な立場に立たなければそれによる「空気」に飲み込まれてしまうので直接的に肯定するというのは避けなければなりません。

 個人的には、集団的無意識というよりも、集団的傾向と書いた方が無難なように思えます。無意識と書いてしまうと個々の無意識が抽象的な部分で繋がっているといった、感じることのできないテレパシーみたいな現象を想起してしまい、神秘主義に転倒してしまいかねません。そういうのが存在するなら、やはり証明する必要があるでしょう。

 もし集団的無意識が具体的に存在するならば、それは集団として一定したもので個人を一方的に縛るだけのものではなく、個々の意識プラス無意識によって常に動的に書き換えられるものでなければならないと思います。

 ただ、それが自分の意図したとおりに書き換えられるかどうかは分かりません。あくまで書き換えるのは意識プラス無意識なので、自己のコントロールが及ばない書き換えもあるかと思います。とにかく、一定して一方的に制約するものではなく、その「空気」自体が自己否定的にかつ動的に書き換えられる必要があり、それが歴史的「空気」になるのではないかと思います。




 以上、まとめますと、もし集団的無意識が具体的に存在するなら、個の中に全体があることになり、いわばフラクタル構造のようなものが出来上がらなければならない。そして、それは全体という概念によって一方的に静的一定として制約されるものではなく、個々の意識・無意識が常に動的に書き換える自己否定的歴史的なるものにならなければならないということです。

 最後少し難しく書きましたが、簡潔に書けばこうなります。今回も長くなりましたが、結構割愛した部分が多いこと、ご理解くださいm(__)m


・わたしのコメント

コメントありがとうございます。実は本文章を書いた後、集団的意識の構造とその現象なりたちについて集中しすぎて、複雑性による秩序→カオス→秩序がダイナミックに行われていて、「空気」もこのダイナミクスの中で変化している層もあることを書き忘れているなーと思っていたら見事に指摘を受けましたw。
また集団的意識・無意識という言葉よりも、集団的傾向、または集団的バイアスによる「空気」形成のほうが大体の場合合っているとわたしも思います。しかしではその集団的傾向はどのように現れたのかと考えると、遺伝的、歴史的、社会的、経験的、経済的、思考的など様々な影響が考えられ、その中で集団的意識・無意識が機能している<場>はあるのではないかという問題提起はできます。

これはどうも「視点」が問題ではないか、という気がしてきました。個人と集団という二項対立においてminato様は常に個人からの発想をされていますが、わたしは集団からの見方もできるのではないかと言いたいのです。
かつてゲシュタルト心理学が「形・形式・図」などから間の知覚は「個別的な感覚刺激の総合からなるのではなく、個々の感覚を超えた全体的な枠組のもとに成立している」と考え、それが現在の認知心理学認知科学の基礎となっているのをみると「形式」からのものを見ることは十分できるでしょう。

ゲシュタルト
http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%B2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%88

認知心理学
http://en.wikipedia.org/wiki/Cognitive_psychology (英語のほうがちゃんとしています)

また個人と集団と対置しましたが、この個人という意味でも集団という意味でも階層(レベル)があると思います。個人の認知にも実際にはかなり複雑な手続きをえて成立しているように、集団にもまず集団規模によりのそれぞれの集団的傾向があり、そこからまたそれぞれの「空気」形成があり、またまたそれらが文章で書いたようにサイバネティックスなフィードバックでつながったり、破綻したりする相互連関が起こっているのではないでしょうか?だからこそminato様のように個人からの「空気」という考え方をもつ集団が成立しつつも、その集団とは違う考え方を持つわたしのような意見に賛成するグループも成立し、それを複雑性規模の大きさでみると、minato様のおっしゃるフラクタルな形で見えると思います。ただそれが歴史的(あるいは遺伝的)という制約の中で「空気」の変化と「社会」変化がほぼ同時に起き、形が変わることも当然あります。そうでなければ女性の社会進出率が変わることなどなかったでしょう。(これが「個人」が変わったからとか、世代という「集団」が変わったからだなどの議論は不毛だと思いますので割愛します)

つまり何が言いたかったのかというと、一定の形式(フラクタル)が歴史的・遺伝的としてすでにありながらもダイナミクスに動く階層は存在し、それによって「空気」は自己否定的に変化する。その「空気」は「個人」から始まる「空気」からでも「集団(様々な規模がある)」から始まる「空気」からでもお互いに影響しながらも、ないまぜに形を変えていく。個人が集団に抽象化されると個人はその特徴を失うことがままあり、個人の「空気」が集団的な「空気」に捨象されながらも適応させられることがある。個人から始まった空気も集団になれば「同質・異質」などに分けられて、少数派・多数派というよくある立場になり、それら集団の規模も「空気」に還元される要素がある。そして変わる「空気」、変わらない「空気」は、1.表層・・・法律(論理)2.古層・・・長期的関係(慣習)3.最古層・・・集団淘汰(遺伝)という歴史的関係性も関与してくる。

最後に、わたしは長々と文章を書いてきましたが、実は個人から始まる「空気」を否定したことがなく、あくまでも集団・集団的意識・無意識(集団的傾向)によって「空気」が成立する可能性があることを説明しようと試みてきたことをご理解ください。(本記事の一番最初に書いてあります)

あとやはりminato様は図書館で借りて「「空気」の構造」を読んでいただければ幸いです。本書は「集団」の「空気」がどのような悲惨さを日本の歴史に与えてきたかについて述べているので、おそらく怒りを持って読めると思われます。

また大変消耗しましたので、この件についてはしばらくこれ以上コメントできません。重ね重ねご理解いただきますようお願いいたします。

p.s.minato様、またこのコメントをはてなに転載したいのですがよろしいでしょうか?


・minato様


 どうぞどうぞ。長々と書いてしまって申し訳ありませんでした。

 できる限り自分の言葉でこの問題に取り組んでみようとしたのですが、やはり自分の無知をさらしてしまった感が否めません……。この問題は想像以上に深いものですね。集団的無意識についてもっと考えてみようと思います。

 ありがとうございました!


・わたしのコメント

minato様

許可をいただきありがとうございます。
実は「集団」の「空気」になった場合の詳察が不完全で、「集団」の「空気」に埋もれてしまったはずの個人が、均一化した「集団」から立ち上がり、目立つ個人またはノイジー・マイノリティーとして集団内に新しく「空気」をつくる可能性(これはminato様の個的「空気」が近いと思われます)があるのですが、気力が尽きたのでしばらくはこの問題にたちいりません。

これまでお付き合いいただきまことにありがとうございました。