ノモンハンの夏  半藤一利

前回からの流れで、同じ著作者である半藤一利氏の「ノモンハンの夏」についての書評していきたいと思います。本書は必ずしもノモンハン事変での戦場を中心に描いていくわけではなく、当時の国際情勢から日本帝国陸軍の動きなどをくわえた多角的な見方でノモンハン事変がなぜ起きたのかを検証していきます。そのため個人のエピソードなどは上級将校がほとんどで、ひとりひとりの兵卒についてのエピソードはほとんどありません。これは半藤氏も言及していて、ごく一部を除いてわざと書かなかったそうです。しかし、その一部にこめられた半藤氏の日本軍に対する怒りもまた迸っています。この怒りがなぜノモンハン事変が起きたのかを研究する原動力になったのは間違いないでしょう。


このノモンハン事変ですが、まず第一次ノモンハン事変と第二次ノモンハン事変に分けられます。第一次では小規模の戦闘で、日本軍はさしたる抵抗もなく勝利をおさめるのですが、これを重要視したソ連ことスターリンジューコフというその後第二次世界大戦でもっとも有能な将軍のひとりに数えられる人物を派遣します。これにより戦力が大幅に強化されたソ連軍と日本陸軍が対決するのが第二次ノモンハン事変と呼ばれる戦いです。

東京にある参謀本部作戦課は陸軍の中でもエリート中のエリートが配属される課で、ここにいる人間はまさに陸軍の軍事作戦のほとんどを決断していました。一方当時の満州には関東軍という軍団が組織され、彼らは広大な満州での防衛を担っていました。この満州関東軍司令部参謀本部作戦課にいる人間たちと東京の作戦課の考えが一致していなかったことが、ノモンハン事変を日本側から起こした直接の原因となってしまいました。
東京の作戦課は満州や中国への侵攻をできる限り抑えたいと考えており、その旨を各軍に対して命令していました。しかし関東軍司令部の「満ソ國境紛争処理要網」を独自に立案して東京に送ります。この内容が東京の命令とは反対になる危険性をもつ攻撃的な要素をもつ作戦案だったのです。


この状況のなかで関東軍参謀本部にお互いに交友関係のある将校たちが赴任してきました。作戦課長(高級参謀)に寺田雅雄大佐、服部卓四郎中佐、そして辻政信少佐など多くの人物が一同にそろったのです。中でも辻政信と服部卓四郎はお互いに正反対の性格でしたが仲がよく、肝胆相照らす上司と部下という関係になっていきました。行動力と立案力と弁舌に長けた辻、そしてそういう行動を取る辻を上手にコントロールして権謀術数を振るう服部。このふたりは悪い意味でノモンハン事変における主役となっていきます。


辻は多くの上司や同僚から満州の状況について強く信頼されていましたが、その実態は後世から見るとあまりにお粗末としか言えません。まずはソ連軍に対する戦力を過小評価していたというより、勝手にそうだと思い込んでいました。これは関東軍だけではなく、日本陸軍自体そのようにソ連を侮っていたのです。たとえ情報が亡命してきたソ連軍の将軍から出ていても、それらはほとんど無視していました。つぎに過剰なまでの「攻撃主義」。果敢に突撃し、機先を制して敵を撃つことこそ敵を一挙に壊滅させる方法であることに異常に執着しました。これは戦争という極限状態では決して間違ってはいないのですが、それ以前に上級将校として勝つための武器弾薬食料などの補給の維持、敵の行動を詳しく検討し弱点に戦力を集中させることなどをほとんど怠っていました。これらの条件は第一次ノモンハン事件に直接つながります。


エスカレートしていく関東軍参謀本部に対して、東京の参謀本部は侵攻はこれ以上ありえないと考えていました。東京ではノモンハン事変が起こった後からあくまで戦線不拡大を指示していたと言いはり、満州では東京は「満ソ國境紛争処理要網」を受け取り許可したと主張します。この関係はどうやら曖昧なままであったらしく東京と満州ではお互いに自分たちはこう考えているから相手もそう考えているだろうという思い込みがあったのでしょう。この話を聞くと実に日本的なナアナアで始末していくやり方が悪い状況に陥ると、こういうことになるということを示しています。しかしそのためにノモンハンで何万人もの人が死傷してしまいました。


ノモンハン事変では日本軍とソ連軍の死傷者はあまり変わりませんが、兵士、戦車、飛行機の数と圧倒的な砲撃で攻撃してくるソ連軍に日本軍は撤退を余儀なくされます。そしてその後の交渉で満ソ国境はソ連が主張していた国境線に確定しました。
この戦いが終わった後、どのように将校たちは責任をとったのでしょうか。この作戦に関わったほとんどの作戦参謀は一時的に左遷される程度で済みましたが、多くの佐官級の人達は自決を強要され、また下級将校も同じように責任ははっきりとらされました。そしてソ連に捕虜になって戻ってきた日本兵士も同じ目に合わされました。


意思疎通ができずにいたずらに戦力を消耗させる参謀たちの無責任さ、東京と満州でお互いに都合のいいことを考えていたこと、そして国際情勢を読めていなかったこと。様々な要素が合わさってノモンハン事変というのは起きてしまい、そしてその後の教訓になることもなく兵士は死傷していったのです。


最後に辻政信と服部卓四郎が戦後ノモンハン事変について以下のように語ったことを紹介します。

「(敵が)まさかあのような兵力を外蒙の草原に展開できるとは、夢にも思わなかった。作戦参謀としての判断に誤りがあったことは、何とも不明の致す所、この不明のために散った数千の英霊に対しては、何とも申し訳ない」
そしてこうも書く。
「戦争は、指導者相互の意志と意志との戦いである・・・・・・もう少し日本が頑張っていれば、恐らくソ連側から停戦の申し入れがあったであろう。とにかく戦争というものは、意志の強い方が勝つのだ」
あるいはまた、いう。
「戦争は負けたと感じたものが、負けたのである」   p.443

服部参謀の事変観はこうである。
ノモンハン事件は明らかに失敗であった。その根本原因は、中央と現地軍との意見の不一致にあると思う。両者それぞれの立場に立って判断したものであり、いずれにも理由は存在する。要は意志不統一のまま、ずるずると拡大につながった点に最大の誤謬がある」   p.443-444


辻はまったく意志の強さでしか戦争をみておらず、また作戦参謀として誤りがあったことは認めながらも、話を聞く限り自分が勝手に想像した敵を相手に戦っていたのでしょう。そんな人間が立てた作戦なんてまったく意味がないどころか、多くの不利益を被るのは明らかです。

一方で服部ですが、一見冷静に省みて東京と満州での意志の不統一が原因だと言っていますが、彼の言葉からは彼が事変の当事者どころか首謀者だという責任をまったく感じません。まるで後世の歴史家が言うかのごとく自分の過ちを語るのはどうにも腑に落ちません。
このノモンハン事変は日本というカタチが完全に悪い方にでた姿なのだと言えるでしょうが、こういう状態の日本にはなんともいえない侘しさを感じます。


ノモンハンの夏 (文春文庫)

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