地ひらく  福田和也 著

石原莞爾。現代では彼は危険な事件を起こした軍人だったとか、名前だけ知っているとか、それ以前に名前すら知らない方も多いでしょう。しかし彼は太平洋戦争前の日本にとってひとつの方向を決めるのに影響力を与えた人間であり、現代でも彼の行動が理解されつつも誤解されている人間だと言えるでしょう。本書は石原莞爾の軍人人生を中心に描写していながらも、約半分のページは明治の終わりから昭和初期にかけての国際情勢や国内問題についての事件や影響について書いていて、それらの事件への見方に所々福田史観とでもいっていい毒が含まれているので、そこは注意されながら読み進めて下さい。


本書は石原が陸軍幼年学校に通い始めることから物語が始まります。小さな時から聡明で理解力や頭の回転が素早い一方、激しい性格を見せることもあったといいます。14歳で仙台陸軍幼年学校に入り、17歳に卒業するまで奔放な逸話がたくさん残っている一方で、最年少ながら抜群の成績を収めていました。彼の素行は嫌われる人には徹底的に嫌われ、好かれるの人にはかなり可愛がられたといわれます。その後仙台幼年学校を卒業し、東京にある中央幼年学校へ進学します。ここではより実践的な軍事教練がおこなわれるのですが、上級生から下級生に対する私的制裁こと鉄拳制裁が横行していました。石原はずいぶんこの私的制裁に悩まされましたが、ここで石原は「人道」だけでは全うできない将校としての義務を私的制裁から考えていたと著者は言います。
中央幼年学校を卒業した生徒たちは上等兵として任地に配属され伍長に昇進した後、東京市ヶ谷にある陸軍士官学校に入学します。中央幼年学校時代以来、先輩の軍人や識者への訪問をしたりしつつもいつもどおりの石原は、成績は第三位にも関わらず銀時計を下賜される第六位で卒業することになります。


その後以前上等兵として配属された山形歩兵連隊の見習士官になります。そしてこの山形での経験が、石原が軍人としての能力を発揮する決定的な影響を受けました。もとより石原は意外なことに作戦や戦史に詳しい参謀型の将校ではなく、兵を自在に把握してひとりひとり活用できる野戦型の軍人でした。それを実際に培ったのは山形の連隊で兵と共に接して実際に交わった生活をした経験から形成してきたからです。さらに石原の行動は常に思想・信仰と密接に関わっています。兵たちと訓練を体験していくとともに、兵士たちのなかに国家よりも高い何物かのあらわれをかいま見たのではないか・・・と福田氏は推測します。

石原の思想にもっとも影響を与えたのは田中智学と国柱会の法華信仰でした。田中智学は多彩な宗教活動を実行し、日本は世界を仏国土にする責任を負っている思想をもって広めようとしていること、さらにそれら活動と思想を確固とした信仰として確立しました。石原は法華信仰と田中智学に必ずしも思想だけを求めただけではなく、その確固とした信仰こそ石原を動かした核となるエネルギーであると同時に、なにげない日常を安心して暮らすために必要だったのです。


韓国守備を経験した後、若松の連隊に復帰した連隊の連隊長に陸軍大学校入学試験を受けることを指示されます。石原自身はこのまま連隊長に昇進して、兵士たちと共に過ごして死ぬつもりだったようですが、石原の士官学校での成績が飛び抜けて優秀だったために陸軍大学校入学を命じられたのです。その入学時のエピソードもたくさんありますが、とにかく柔軟な発想や明晰な論理力だけでなく、間違いを指摘してもすぐに誤りを分析して論理を組み立てることができました。

そんな受験のしかたでも見事に陸軍大学校に入学しますが、ほとんど私物を持たない生活をします。それはたびたび若松の連隊に帰って兵士たちと会っていたからです。厳しい陸大授業のなか、石原は現地演習に非常に巧みだったといわれます。それは才能だけでなく、兵たちと実際に接して生活してきた石原にはどのように兵士を動かせばいいかが身にしみていた、というより体得していたといっていいでしょうか。そして石原は第二位の成績で陸軍大学校を卒業して、恩賜の軍刀を得ました。


しかし卒業後の陸軍でも閑職にあたる役職に回され、中国・漢口での諜報活動につきました。ここで石原は危険な任務をこなしつつ、中国大陸というダイナミズムを感じながら職務にあたっています。
漢口での諜報活動のあと、石原はようやくドイツ留学を認められます。石原が見たベルリンは、第一次世界大戦で敗北して混乱したドイツでした。経済が混乱し、ストライキやデモで喧騒を極めているなか石原はベルリンからポツダムに居をかまえて、そこで長期間すみました。そこはその後ポツダム宣言を勧告したツェツィーリエン宮の近くだったのは歴史の偶然といえるでしょうか。
石原はそこでドイツ語の勉強をしながらも、軍事研究はフリードリッヒ大王という存在が彼の戦争思想に強い影響を与えることになりました。まず「決定戦争」と「持久戦争」という概念が石原の考える戦争の二大形態です。「決定戦争」とは、敵をどれだけ速く撃破して短期のうちに勝敗を決めようとする戦争形態で、対する「持久戦争」はあらかじめ「決定戦争」では勝つことのできない敵を長期的な視点から戦略を考え、勝利に向けて軍事だけでなく政治、経済、文化、思想、内政などをもつなげて考えて行かなければならない戦争形態です。つまり「持久戦争」とは戦争計画というより、政治的に解決する手段とみるべきでしょうか。


こうして自らの独自思想をドイツ留学であたためながら日本に帰国してきます。帰ってきた日本では関東大震災によって東京は大惨事の憂れき目にあっていました。石原は各人間が絶対平和のもとに暮らす世界という理想のためには「持久戦争」という「世界最終戦争」に勝利する思想を作り上げていました。しかもこの「世界最終戦争」の相手はアメリカです。しかし日本の状況は彼の理想から程遠く、日本陸軍がそもそも「世界最終戦争」に耐えうるような「持久戦争」にまったく対応できていません。それに加えてコメ不足や世界恐慌によって経済がガタガタになると同時に、政治も大混乱に陥ります。エリートコースを外されて主に陸軍での教育に携わっていた石原に昭和3年10月10日付けで関東軍司令部の参謀に任命されました。そしてここからついに石原莞爾がある意味で日本の命運を変える可能性が巡ってきたのです。


その頃満州の大連では張作霖爆殺事件の影響で非常に排日運動が盛んに行われ、日本の憲兵隊本部の周りではさかんに張作霖の息子である張学良支持のデモが起きている。石原は不安定化した満州での日本の立場を回復するための軍事作戦を立てるために、満州への配属が決まったのです。すでにひとりひとりの兵と向き合い、独創的ながらも柔軟でかつ論理的な思考、法華信仰、そしてドイツ留学によって確固とした軍事研究と自分自身の理想。石原は1万4000人の日本軍で20万に及ぶ張学良軍を相手に戦わなければならないだけでなく、装備も断然日本軍は劣っていました。
まず石原は張学良軍と戦った場合にソ連軍が介入してくるかどうかの検討から始めて、自身の「戦争史大観」、最終的に「関東軍満蒙領有計画」が主計将校との間で作成されます。石原はこの満州を領有することがその後訪れるアメリカとの「世界最終戦争」への準備のためと、満州に住むすべての民族が正義の元で暮らすことになることを満蒙問題解決策に入れています。一方でもしアメリカに敵わないことがことが明らかなら日本は全武装を解くとまで言っていることは、石原が他人に冷たいと感じるまでの合理性を備えていたことを意味しています。そしてそれでも戦争が避けられないなら日本軍のもと中国民族の経済生活を活発にすることによって自給自活し「持久戦争」に対応すると考えていました。これほどまでの戦略を考えられた日本陸軍軍人はごく少数なのは間違いありません。


石原莞爾はそれからあらゆる関係者に手を回すため東京、満州、さらには民間団体との会合を繰り返しており、非常に忙しい日々を送っていました。実際の作戦計画を漏らさずにしながらもできるだけ多くの人間、特に満州に住む人々への協力が不可欠でした。この工作の中張学良軍の締め付けが日本人居留民に負担を課していく。時間はあまり残っていない。しかも張学良軍は25万の軍勢の上、影響下のある人間を入れると45万人になり、さらに張学良は蒋介石との行きがかりを捨てて国民党に入党します。政治的なレベルでの外交交渉もありましたが、結局中国から全面的に撤退するか戦うかという二択に迫られていたのです。
そして事変は柳条湖事件によってついに爆発します。この事変の首謀者として悠然としている石原に対して、他の参謀やとくに着任したばかりの本庄繁関東軍司令官は困惑します。しかしすでに賽は投げられ、司令官は決断をしなければなりません。本庄が本職の責任をもってやろうという決断をうけて石原は素早く命令を発しました。圧倒的劣勢である場合の奇襲はできるだけしっかりとした作戦計画を迅速にかつ緻密にしなければなりません。命令が石原から発せられ、他の幕僚たちは本庄の決裁をうけては電話をとりつぎ電信にして送りました。そしてすべての命令が発令し終わった後、軍用列車に乗り込んで奉天に移動します。そして奉天についた時には張学良軍は撤退し、すべての日本人の協力の下完全に影響下におかれていたことを知ることになりました。


日本軍人だけでなくその他の社会的な総合力をもって交通機関、通信機関、それに張学良軍を分断して初めて成功した作戦といっていいでしょう。このために有機的な手段を考えて、実行した石原が行ったのは「決定戦争」でした。しかしこの満州事変の鮮やかさが後の日本陸軍と政府の判断を誤らせ、のちの支那事変の泥沼に日本軍が引きずり込まれた一端になってしまいました。少ない戦力でも勝てたのだから、次も同じように勝てるとの雰囲気が日本陸軍関東軍に出来上がってしまったのです。


そして日本人を中心にしつつも最後の清帝国の最後の皇帝愛新覚羅溥儀をいだいて満州国を建国します。「南無妙法蓮華経」という信仰の元に「五族協和」「普元同慶」「王道楽土」の理想を心から信じていた石原にとってこの満州は来るべきアメリカとの最終戦争の第一歩でした。しかし「王道」と「覇道」は一対になった東洋の思想で、彼のやり方が「覇道」でもって対抗していることは完全に矛盾しています。これは石原が後年の東亜連盟運動へと導くことにつながっていきます。

しかしあまりに高まった石原の世界的な名声は反対に軍中央に避けられることになりました。そして仙台にある連隊長として赴任するという左遷にも近いことを味合います。仙台では軍の内規をより公正なものとすると同時に、除隊者に対して植物の栽培やうさぎの飼育、さらには満州移民を積極的に進めました。これは軍人としての役割というよりも農業・社会改革者としての石原莞爾が見えてきます。石原の予備役編入後にはさらにその傾向が強くなっていきます。


仙台の連隊長勤務のあと、石原はついに参謀本部作戦課長に任命されました。前回の書評「ノモンハンの夏」でも言及したように、参謀本部作戦課は陸軍の中枢といっていい部署です。しかしこの栄転は永田鉄山刺殺の当日という血なまぐさい日に初出勤となってしまいました。永田鉄山は将来の日本陸軍を背負って立つと言われるほどの大物で、統制派とよばれた陸軍内派閥の首魁といえる人物でした。彼が生きていればその後の戦争は回避できたのではないかという識者もいるくらいの優秀さと石原に劣らない先見性と持ち、そして独自の改革を成し遂げようとしていました。石原は死んだ永田鉄山とも刺殺した相沢三郎とも顔見知りであり、またどちらともある程度親しい仲でした。相沢は統制派に対立する皇道派に属しており石原にも行動の理解をして欲しかったようですが、石原は同情する余地は大きくても広い作戦戦略を考えた場合に彼の取った行動は支持できませんでした。


再び石原が歴史の上での行動を起こしたのは、2.26事件における断固とした反乱将校に対する鎮圧を主張した時です。しかも暗殺対象になっているのに決起部隊側に思いっきり飛び込んでいくのは異常だといえますが、石原らしい行動とも言えます。昭和天皇は決起部隊をすでに「反乱軍」や「暴徒」と呼んでいたと言われているので石原とほとんど同じ見解を持っていましたが、天皇周辺では統一した見解になっていませんでした。ここで事件を起こした青年将校を誤解させるような印象をあたえてしまい、彼らは自分たちの正義が認められたと感じます。しかし天皇が強固に鎮圧を指示し、周りも次第に鎮圧の流れに生っていった結果、ついに彼らは叛逆者となってしまいました。そして石原は先頭に立って青年将校たちの鎮圧を積極的に行ったのです。


2.26事件のあと石原莞爾は一気に陸軍の主流へと押し上げられました。事件の責任をとって10人の大将が辞表を提出して、表舞台から去っていったからです。石原は戦争指導課長に就任し、「国防国策大網」を海軍に提示して国防方針の変更に着手しました。石原はまずソ連との戦争を行うためにアメリカやイギリスとは仲良くしなければならないと考えていましたが、それは海軍の考える南方を占領することで資源を確保しようとする方針と真っ向から対立するものでした。結果海軍と陸軍の作戦の中間がとられて、海軍は南進、陸軍は北進を規定路線として決めてしまい、これが太平洋戦争において陸軍がアメリカに対して特に戦略もなく突入することになったのは不幸としかいえません。
この「国防国策大網」では陸軍の戦力が大幅に強化され、ついに全予算の内軍事費が50%を超える事態に突入します。もちろん石原はこの状況が危機的だと認識していて、解決策としてソ連研究から得た「重要産業5カ年計画」を少壮官僚と側近、そして半民間の協力の下満州で実施します。これはまさしく戦後の「日本型経営システム」のさきどりであり、社会主義的管理がインフラストラクチャなどの整備に役に立った時代の始まりを予感させます。石原は政治と軍事は関わるべきではないと思いながらも、もし「持久戦争」が起きた場合軍事に関わる人間が国政に関わらざるをえなかったことは考えていたでしょう。この時期の石原が日本の独裁者になれる一番近い地点にいたのではないかと福田氏はみています。
しかしすぐに石原の行動は止められてしまいます。石原たちの満州派の独走を止めようと梅津美治郎などが組閣の切り崩しを図かり、それによって満州派は林銑十郎を首班とする組閣に対して距離をとったからです。これにより石原の国家改造計画はその現実性をだんだんなくしていき、また中国との戦争をこれ以上行わないと考えていた石原の思惑をこえて日本軍は中国に対してより厳しい態度をとっていくことになるのです。


一方中国では国民党と共産党が血で血を洗う戦いを繰り広げながらも、国民党の蒋介石は日本の行動に不信感を増大させてきました。満州事変によって日本との関係が劇的に変わってしまっただけでなく、中国国内の分裂はいまだに深刻な状態だったので、蒋介石から見ると日本は信用ならない相手だけど中国国内の統一も果たさなければならないというまさに内憂外患という立場にあったのです。
しかし張学良による西安事件が歴史の流れを変えました。彼は蒋介石を逮捕して、共産党との協力の下に日本軍への統一戦線を主張したのです。これが成功して第二次国共合作が締結されたことは日本軍にとって脅威に写ったことでしょうが、石原は満州をも中国の主権を認めて、そして日本と中国の力をあわせてソ連に対抗すべきという考えでした。
盧溝橋でおきた1発の銃弾によって日本軍が国民党軍に攻撃をかけるという、いわゆる盧溝橋事件が起きたことで石原のもくろみが消し飛んでいく事態になってしまいます。この事件は最初小さな衝突でしかなかったのですが、段々と日本軍・政府と国民党との交渉の中で事態が悪化していき、最後は首相である近衛文麿が交渉を断ち切って大きな事変と化してしまいました。日本軍による進撃が起こった時にこれ以上の戦線拡大を阻止するために必死で説得し回った石原ですが、その甲斐もなく日中戦争・・・あるいは支那事変の泥沼がに巻き込まれていくのです。


日中戦争が悪化するなか石原は参謀本部を去り、関東軍参謀副長として転出されました。満州に戻ってきた石原が見たのはすでに彼の理想とする「王道楽土」とは程遠くなってしまった満州でした。半国策会社である満州鉄道や様々な官営企業と官僚と軍人が我がもの顔で満州を支配していて、「五族協和」やさらに「八紘一宇」といった理想がリアリズムの中に埋没したことを感じたのです。そしてこの満州の地で石原莞爾東条英機はことごとく対立を深め、もともと満州という地を国家国民を救済するために日本の統制におきつつも「五族協和」の元ともに発展し、最終的には日本からの独立すら考えていた石原と、軍事を握りながら積極的に中国国内に進撃する関東軍をサポートする東条は根本から考えが違っていました。
石原はことごとく中国への進出を批判していましたが、当の日本軍は自分たちのやり方は満州事変の反復として理解していたのです。そして石原は昭和13年(1938年)に関東軍司令部へ辞表を提出し、軍人をやめることを決めます。


とりあえずいきなり辞表を提出されて困った司令部は、石原莞爾を閑職である舞鶴要塞司令官に任命します。これには予備役入りを希望していた石原はさしたる感情もなく受け取ったでしょう。重要なのはこの舞鶴要塞司令官に任命する前に与えられた休暇中に、石原は彼の後半人生のすべてをつぎこんだ東亜連盟運動の基礎となる「昭和維新方略」を一気に書き上げます。「昭和維新方略」ならびに東亜連盟運動は日本、満州支那(中国)の和平を実現して、その後アメリカとイギリスの帝国主義を越えることを目指し、中国共産党との対決を実行しようとするものでした。
完全に手詰まりになっていた支那事変と日本陸軍は、石原の東亜連盟の提議に大きな反響を引き起こしました。一部の重要な要人たちに東亜連盟運動の東亜新秩序は事変を止める思想として歓迎され、期待をされたのですがそれは国民国家を超越する可能性をもつ危険性と現実の政治的リアリズムにおける可能性との狭間で一部の人達には歓迎を持ってむかえられ、東条を中心とするもはや主流派となった陸軍には弾圧される結果になってしまいました。


そして舞鶴要塞司令官となった石原は戦争にとらわれない歴史研究と、法華経の研究を再びはじめたことで思想家に向かっていく純化していく時間を与えられます。公務がほとんどない石原は研究を続けている途中に、満州国境でノモンハン事変がおきたことを知ります。さらに石原はノモンハン事変をうけて歩兵操典を見直し、ソ連軍に対応する手段の研究を第16師団の下士官や兵士に至るまでアイデアを出させます。そして訓練を施し、自身ももう一度師団長として満州に戻ろうという思念があったが実らず、16師団は北満州に赴任したのち昭和18年フィリピン、レイテ島に転出した師団は玉砕します。


昭和16年(1941年)に石原はいよいよ予備役に編入されて、現役生活に幕を下ろします。その後石原は東亜連盟運動を地道に行う活動を拡大させていきます。舞鶴要塞司令官時代に作成した「世界最終戦論」を中心に立命館の国防学研究所や立命館を辞職させられたあと故郷の鶴岡を中心に東亜連盟の演説会を行なっていきます。しかし石原はこの戦争は絶対勝てないと断言していたといいます。それでもアジア解放の大義だけは実現するべきであるというのが石原の真意であり、何よりもアジアの解放を心から考えていた石原の純粋な精神の発揮とでもいうべきでしょう。


そして戦争は石原の予測通り日本の敗北に終わり、日本はアメリカに占領されます。終戦後の石原莞爾はこれまでの支持者たちに対して、日本は敗北したからこそ真の国体への信仰、徳義や信頼への転換こそ国体の実現が可能ではないかとといたといいます。終戦後に国体という日本を戦争に駆り立てた言葉のひとつを使う石原は、より思想的純粋になっていったのではないでしょうか。その後アメリカ軍による裁判の被告人として石原は出廷を命じられますが、裁判中に実にユーモアあふれる証言をしたりするなど石原の面目躍如といえる行動をとったりします。


昭和21年(1946年)から石原莞爾は酒田北方に近い西山農場に移り住みます。ここで石原とその支持者たちは共同生活をおくりましたが、石原の死後西山農場の多くは役場に買い取られて住宅地になってしまったそうです。石原には遺書というべき文章がふたつあり、それは「新日本の進路」と「日蓮教教義入門」というもので、「新日本の進路」では人類史だけでなく日本も統一主義国家として独立をしなければならないことと、「日蓮教教義入門」では宗教と科学の対比を論じながらも宗教よりも科学的認識をまず優先するべきだと書かれていたそうです。そして石原にとって重要なことは科学と宗教が一致する予言という宗教的直感であり、「世界最終戦論」はその性格をよく引き継いでいるとみていいと福田氏は言います。石原の最後は預言者とも言うべき存在に近づきながら昭和24年8月15日にその一生を終えました。


以上石原莞爾について本書から抜き出したのですが、すごく長くなってしまい書いている僕もヘトヘトになりました。石原莞爾だけでなく昭和の始めに日本を変えようと行動した人達は理想と矛盾にあふれています。石原のとった軍事と信仰を基礎においた行動と、北一輝の政治と経済から発した理想を比べると、石原はより行動的なプランであり北はその高い理想をもって多くの青年将校を惹きつけましたが、実施性に乏しかったことは否定できません。昭和史の始めはまだまだ多くの人物により混乱していくのですが、それはこれからも書いて行きたいと思います。


石原莞爾と昭和の夢 地ひらく 上 (文春文庫)

石原莞爾と昭和の夢 地ひらく 上 (文春文庫)


石原莞爾と昭和の夢 地ひらく 下 (文春文庫)

石原莞爾と昭和の夢 地ひらく 下 (文春文庫)