大本営参謀の情報戦記  情報なき国家の悲劇  堀栄三

日本は情報戦略に非常に弱いことが一部で有名です。最近では佐藤優氏などの著作にもありますが、日本人は外交や情報、諜報などに関する意識が鈍感で、情報や諜報の世界を考えたこともない人たちが多いと感じることはよくあります。


今と変わらず情報に対する認識が甘かった太平洋戦争中の日本陸軍に、大本営作戦課第二部へ移動を命じられたのは著者である若き日の堀栄三氏です。まだ陸軍大学校を卒業したてであった堀氏はいきなり情報の世界に巻き込まれながらも、アメリカ軍の動きを観察し、そしてマッカーサー参謀と呼ぼれるまでになるほどアメリカ軍の動きを正確に分析した作戦を立てられるような人物になりました。


堀氏は南方をまず偵察し現地の情報をつかんだ後、大本営に戻りアメリカ軍の動きを様々な角度から捉えて分析します。その分析たるや相当なもので、サンフランシスコから発するラジオから、航空隊の無線まであつめた情報を堀氏の「職人的勘」で判断していきます。そして堀氏と同僚たちはついに「敵軍戦法早わかり」を作成するに至るのです。


この「敵軍戦法早わかり」を南方に向かう部隊に説明に向かったりしましたが、その一貫でフィリピンにいる山下奉文将軍麾下に行くよう命じられます。フィリピンについて早速聞いたのは、日本軍が大戦果をあげたという情報です。しかし堀氏が確かめていくと、誰一人しっかりした戦果を確認していないことが次第にわかってきます。そして山下将軍との初対面時にそのことを報告し、山下将軍は理解を示して祝賀会を慰労会に変更など、堀氏を信じてその通りに対応します。堀氏は山下師団でアメリカ軍が上陸してくると考える地点を他の参謀と考えて行く事になりますが、ここで堀氏はアメリカ軍が上陸するのはレイテだと想像しつつも、それを確認が取れずに参謀として判断が遅れてしまいます。そのことを堀氏は以下に述べます。

レイテはマニラから六〇〇キロも離れた遠いところだ。こんな惨めな目にあって、さきに「職人的勘」といったのも、堀の自惚れ以外の何ものでもない。とにかく実戦とはこういうものなのだ。また情報とはかく非情なものだ。欲しいと思う情報は来てくれない。そして不完全な霧に包まれたような情報が、皮肉にも大手を振ってやってくる。欲しいものは二分、霧のようなぼんやりとしたものが三分、あとの五分はまったくの白紙か暗闇のようなものであった。 p.181


先の日本軍が大戦果を上げたという情報が日本軍を弛緩させ、アメリカ軍に対して判断を甘く見積もらせて敵軍が上陸してくるのを事前に防げない体制になってしまっていたのです。それを堀氏は自戒をこめて本書に書き記しています。その後堀氏は正式に山下師団の参謀になり困難なフィリピン戦を戦っていくのですが、昭和20年1月に大本営に戻ってくるように命令を受けます。そこで山下将軍との最後の別れが記述されていますがとても心をうつエピソードです。


そして大本営に帰って待っていたのは、航空機がどこに爆撃にくるのか予測する仕事と、アメリカ軍が日本に上陸した場合にどこにどれだけの兵力が上陸するかについての作戦を立てることでした。しかしその作戦を許可するのは堀氏の所属している課ではなく、作戦課という「密室」を通らなければならなかったようです。

「米軍の九州への使用可能兵力は一五個師団、上陸の最重点指向地点は志布志湾、時期は10月末から11月初旬の頃」


これが当時第六課が判断した米軍の第一次日本本土上陸(米軍はこの作戦をオリンピック作戦と名付けていた)の内容であった。むろんこれは、堀一人でやったわけではない。第六課米国班が大屋参謀を長として戦況班の吉川正治参謀などの協力を得た、いわば総力を挙げての研究であったことはいうまでもない。
この判断は第二部長、第六課を通じて作戦課に連絡されたが、われわれが直接作戦課の部屋に入っていける空気はまったくなかった。堀には、このような帝国最終の緊迫状態の中でも、作戦課とは大本営の中の「もう一つの大本営」であり、その作戦課の中には「もう一つの奥の院のような中枢」があるかのように感じられた。 p.265


これは何を意味しているのでしょう。大本営には天皇がまずいて、それをとりまいている各将軍や政治家が戦局を説明したりしていました。しかしこの作戦課の「奥の院」にいる人達は何者でしょう。おそらく服部卓四郎辻政信のような人間がいたと想像できますが、僕はまだ情報不足なのでこのあたりで筆を置きたいと思います。


情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記 (文春文庫)

情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記 (文春文庫)