ヒューマニティーズ 教育学  広田照幸

今回は前回に引き続き、広田氏の書いた教育書を読んでみました。本書はいわゆる教育の「学術書」ではありますが、とてもわかりやすく構成しています。
どれぐらいかというと教育学「入門書」の「入門書」と言っていいでしょう。この手の「入門書」て実は書くのが難しくて、その学問の歴史的背景はそこそこにその後自分からみた〇〇学といっているような解釈本が「入門書」としてまかり通ることがあります。さらにその学問の重要なことを編集し、枝葉の議論をそぎ落として書かなければならないのですが、しっかりと勉強した方は枝葉の議論に囚われることも多いのです。
広田氏の専門分野は教育社会学ですが、今回の本「教育学」を書くについて骨太な知識と歴史的な教育学的背景を集めながら、それらをひとつに体系化した教育学全体をしっかり描いていると感じます。


例えば教育学を大きく分類すると「実践的教育学」と「教育科学」のふたつがあり、それぞれ長所と短所をもっていてどちらがだけが正しいとは決してなりません。科学が「・・・である」という言明になって、そこからけっして「・・・なすべし」という議論に進みません。もう少しわかりやすく言うならば、科学で一度証明されたものはその証明を前提として議論を進めます(もちろん証明が疑われることはよくあります)。しかしその証明からは必ず「・・・なすべし」とは論理的につながっていません。政治や社会など環境のせいで「なすべし」論理につながることはありますが、学問ではつながりません。

「実践的教育学」はこの「なすべし」を必ず使わなければなりません。「学校制度は〇〇のように作るべし」とか、「教育方針はこうであるべき」など提唱者の理念や実践を同意させ、その他の理念を拒否するのです。これはまったく論理的ではありませんが、様々な経験や多くの裏打ちによる経験による方法で行った教育法がうまくいくことはあります。
これはもちろん大きなリスクを伴います。科学的判断による価値判断じゃなかったり、ただの推測で終わったり、子どもたちはちゃんと学べているのかなど、本当に教育って効果あるのかという疑問をこの「実践的教育学」に感じます。中でも教育者がただの思い込みで行なっていることもあるのではないでしょうか。

だったらすべて「教育科学」で全部解決すればいいのですが、これもそう簡単にいかない。現代の「教育科学」は実験・観察・大量データの統計的処理をコンピューターなどを使い行なっていますが、ただここの「科学」は自然科学な意味での「科学」ではなく、人文学や社会科学で成立してきた方法を用いています。これは先生と生徒との一定のやり取りや、それを元につくる教育目標を作ることに利用できて様々な分析に役に立っています。
しかし「教育科学」というのは、「何が望ましい教育なのか」を教えてくれないのである。もし望ましい教育が科学的にできるようのなれば、手塚治虫のSFマンガにでてくるようなコンピューターに完全に依存できる世界ができるだろう。そこまで話が飛躍しなくともどんな分析でもそれを判断するのは人間で、そこには「実践的教育学」が顔を出してくるのです。


そこで広田氏はもう言い切ります。

教育哲学者が突きつめて考えていくと、結局、教育は「賭け」だ、ということになる。教育は、他者に対する行為であるかぎり、結末は予見しきれない確率論的な「賭け」なのである。p69-70

これにはもうシビレました。教育学者に、教育は「確率」を含むよとハッキリ言い切られたのです。教育には賭けが含まれていて、どうなるかわからない。その中で学校・先生と親はいろんな手段を行わなければならない。前回の「日本のしつけは衰退したか」で論じたように、家族・家庭が子どもに対して無制限の責任を背負っています。そこでは親が主体として判断しなければならない場面は多くあります。学校の教育に依存しすぎたり、また過剰な期待も危ないですし、かといって学校教育にまったく期待しないことも問題がないとはいえないでしょう。


そのすき間同士をかける橋をしているのが、この教育学が役に立つ場所ではないでしょうか。教育目的が迷走してどの教育が正しいかだれも言えなくなるか、この教育が正しいと言い切る教育者の中で、教育思想家ジョン・デューイや、ヘルベルトなどの考えを現代に読み替えていくことができるかもしれない。教育ということが万人に対して適切な倫理を提供できないこの現代社会で、「個人⇔社会」との関係性を教育によって誰かの内的経験によい影響があればいいなぁと思います。悪い影響などは嫌でもやってくるものですしね。


教育学 (ヒューマニティーズ)

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