構造と力―記号論を超えて 浅田彰

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

本書「構造と力」は、現代日本思想にいい意味でも悪い意味でも影響をあたえた本だ。80年代に流行したニューアカデミズム(ニューアカ)の中心としてしばしば扱われたりする。本書については、ホントにいろいろ言われている。本当にいろいろ言われているので、なにを書こうか迷った。いまでもまとっまているとは言い難いけれど、ちょっと自分の感想をのせてみたい。


「構造と力」はほとんどの現代思想入門本のなかで、要約されている。いちばん有名な箇所は、クラインの壺リゾームとスキゾフレニックな逃走だろうか。この言葉の源流は、ドゥルーズ=ガタリの「アンチオイディプス」と「千のプラトー」になるみたいだ。ラカンの章までは堅い学術書として読む感じなのだが、後半は前半の要約が多く、また文学的でもある。クラインの壺リゾームは後半の主要テーマにあげられて、浅田彰の怜悧なレトリックで解説される。 


構造主義ポスト構造主義に対して、まわりで言われる以上のことを知らなかった私にも構造主義ってこんなかんじで展開してたんだと納得できた。本書はよく「チャート式」と揶揄されるが、門外漢の私は肯定的な意味で「チャート式」と言っておきたい。1980年代初頭で、これだけ多くの原本を読み込んでまとめあげるなんてなかなかできない。一説によると、本書執筆のために読んだ本は300冊を超えるという。 


それに、この本ほどつかいこまれた図書館本はなかなかない。他に哲学分野で読み込まれてくたびれている図書館本は、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」ぐらいだろうか。それだけ読まれているということは、本書がもつ影響がいまでもかなり残っていることを示すのではないだろうか。出版されて20年後も読まれる本はごくわずかだ。そしてみんな本書をのりこえていく。そんな宿命を背負っているのだろう。よく考えてみれば「チャート式」の参考書も同じことに気づく。参考書は使い込まれて、消費されて、はじめて読んだ人の一部に追加されるのだ。


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さて、次に読む哲学関連書は、東浩紀の「存在論的、郵便的」か柄谷行人の「探求1・2」あたりになるでしょうか。
あまり難しすぎると途中で投げちゃうかもしれませんがw