日本人とユダヤ人  イザヤ・ベンダサン

今回紹介する本はもしかするとかなり特殊な一冊かもしれません。なぜなら本書はかつて物議をかもしたことで有名で、日本人とユダヤ人の文化と特徴を比較してお互いに反対の特性をもった民族だというのが著者であるイザヤ・ベンダサン氏の主張なのですが、このイザヤ・ベンダサン氏は山本七平氏という日本人だということが定説になっているのです。それを鑑みると、本書はユダヤ人による日本評価というより山本氏の本心は日本人に対する批判であって、ユダヤ人への批判ではないところがポイントではないかということです。


僕が本書を読む所で一番見るべき箇所は「日本教徒」が存在していると指摘していることでしょうか。日本人は無宗教だという言葉は日本人にも外国人にもしばしば言われますが、本書はそれを否定していて、「日本教徒」というのがたしかに存在しているというのです。では何を日本人が教徒として考えているかというと、人間そのものを基準の対象にしていてそれが日本の社会を規定していると主張しています。

日本人が無宗教だなどというのはうそで、日本人とは、日本教というのは宗教の信徒で、それは人間を基準とする宗教であるが故に、人間学はあるが神学はない一つの宗教なのである。そしてこの宗教は、「人間とはかくあるべき者だ」とはっきり規定している。 p.107

さらに本書から引用を続けましょう。

つまり一つの基本的宗規が存在するのである。すべての法律、規定、規則、決議は、満場一致であろうとなかろうと、この宗規に違反していないかどうか厳密に審査されなければならない。従って議決は常に最終決定ではなく、いわば満場一致の決議案にすぎないのだから、日本人は、これにさして神経質にならない。従って「全員一致の決議は無効である」などという規定を設ける必要もないのである。 ibid


本書ではかつてユダヤ人はサンヘドリンという国会兼最高裁判所のような場所で「全員一致の決議は無効である」という律法をもっていたと言います。これに対して日本では「全員一致、一人の反対者もない」ということが多少の異議があっても「全員一致」にする文化がある。本書には日本を持ち上げる箇所がたくさんあって、それらと比べた場合我々ユダヤ人はこのような日本人のようにいかないなどが多く出てきます。たとえば「理外の理」といった日本の文化構造は、律法をもつユダヤ人や欧米人には理解不可能だが、律法に縛られず秩序を保てる日本を賞賛したりしています。しかしここでイザヤ氏(山本氏)が言いたかったのは、「全員一致」にしてしまえば本来違う意見をもつ人間の存在が消えてしまい「全員一致」とした意見・決議の正当性を検証する方法がないということでしょう。違う意見があるということは、全員が誤っていることを防ぐことになる可能性がでてくるけれど、公に「全員一致」になってしまえばそれが正しいかどうか分からなくなるということです。

つまり厳格な法律による規律と、タスクを解決する「弁証法」という概念が日本にはないというのです。しかし山本氏はここで日本には「人間性」と「法」との弁証法が正→反→合という関係になっていることを指摘します。特に新聞論調にその代表をあげます。

どこの国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の立場を一向に明確に打ち出さない。 p.107-8

そしてこの立場を打ち出さないのは、「人間性」とか「人間味」といった人間を中心とした宗教で、「法外の法」と考えればこの状態も理解出来るでしょう。僕はここが本書で一番の考えどころではないかと思っています。


このように本書は様々なことを考えさせられる魅力を持った批評を提示しているのですが、内容の記述には強力な批判があります。たとえば浅見定雄氏の「にせユダヤ人と日本人」が有名で、AMAZONの書評を読む限り完全に論破はしているけど偏った歴史観をもっていると書かれているとその本を読むかどうか迷います。この「日本人とユダヤ人」には偏った文化感があると知っているならあえて読まなくてもいいような気がします。


日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)