「人間はどこまで動物か」  日高敏隆   「進化とはなんだろうか」  長谷川眞理子   「医療のこと、もっと知ってほしい」  山岡淳一郎

今回は3冊まとめて書評したいと思います。生物と人間の狭間とは何かを考えさせられる2冊と、さらに人間を助ける医療とはどういうものかを教えてくれる1冊です。どれもとても興味深くそれぞれ独立した書評でもいいかと考えましたが、むしろ3冊同時紹介することでお互いが深くつながっていることを感じることができると確信したのでこのスタイルでご紹介します。


「人間はどこまで動物か」  日高敏隆
表題は「人間はどこまで動物か」とありますが、人間と自然や動物との関係があるテーマで書かれたエッセイを集めた本。中でも昆虫に関するエッセイが多く、さらに著者の日高氏が設立に関わった滋賀県立大学の工事中におきた自然と建築の問題についてもよく言及されています。特に興味深かったのが昆虫の生存戦略についての話で、モンシロチョウとアゲハチョウの生き方がまったく違うことを始めて知りました。モンシロチョウは実は春夏秋冬の間も生き残ることができて、寒い冬の間に孵化した幼虫はサナギにならずそのままずっと冬を耐えてゆく。彼らにとってサナギになったり、ひらひらとオスとメスを探しあう基準は暖かさにあるようなのです。
そのようなリスクをとるモンシロチョウと比べてアゲハチョウは日長、つまり昼の長さによって孵化するかどうかが決まります。つまり春夏の間に生まれた幼虫は日の長さが「12時間45分」を切ると、幼虫がサナギになってもそのまま翌年まで休眠するのです。しかしアゲハチョウの生き方にもリスクはあって、一度冬の寒さを2ヶ月間経験しないと春になっても目覚めることなく死んでいくことになります。
もう季節は晩秋といえるのに、温かい日は少なくないモンシロチョウがお互いを探している光景を実際に見てなるほどなぁと感心したのでした。


さて、ここまでの話からどうして「人間はどこまで動物か」という問題になるのか不思議になる方も多いと思います。普段私たちは自分たちを人間と呼び、人間と当てはまらない姿カタチをしているものを動物なり植物なり昆虫なりと呼んで区別しています。しかしこれは少しおかしいのではないかと日高氏は考えます。なぜなら人間はたしかに動物と違うのだけれどそれでは比べるスケール(尺度)が一本しかないではないかと。知能で比べると昆虫などはほとんどもっていないが、イヌやネコはとても高いとか、イヌとネコは肉食で草食のウシと比べるとこれもまたイヌとネコのほうが頭が良さそうにみえるなど本当は比較するスケールなんてどうとでも取ることができます。
このようにスケールという名の見方はたくさんありますが、人間は自分自身を動物と例えても「イヌはどこまでネコか?」などという考え方はしませんし、「モンシロチョウはどこまでイヌ」かとも考えません。なぜなら両方ともまったく違う動物だとみているからです。それぞれの種によってまったく違う生存戦略があり、これをたったひとつのスケールで測ることはどうしても無理があるのに、人間だけはどうしても自分自身と動物という見方からなかなか離れません。
そこで再び「人間はどこまで動物か」という問題に帰ってみましょう。このスケールから測る答えってどういうものがあるでしょうか。みなさんもいちどこの難問に挑戦してみてください。


人間はどこまで動物か (新潮文庫)

人間はどこまで動物か (新潮文庫)



「進化とはなんだろうか」  長谷川眞理子
「人間はどこまで動物か」という本の紹介のあとは「進化とはなんだろうか」という本を紹介していきます。さきほどは人間と動物とのスケールはまったく違うことを言いましたが、今回はどのように生物は進化してきたのか、また人間のスケールよりもさらに大きい生物という観点から自然と生物を見ていきたいと思います。本書では進化生物学の概要とその理論をわかりやすく説明していますが決して内容は軽いものではなく、生物における進化とはどういうものかについてしっかりと描いています。著者の長谷川氏は進化生物学の中でも行動生態学が専門で、とりわけ本書を執筆するのに適応と自然淘汰の話を中心にしています。
DNAが二重らせんはわずか20種類ぐらいのアミノ酸(タンパク質のもと)でできていて、さらにDNAは簡単に複製が可能なAGTCの中でお互いに決まった塩基配列をもっており、これによって正確に細胞が再生することができますが、興味深いのはこの地球上で生命はたった1回しか誕生しなかったということが、DNAの分子特性からわかるということです。これは先程の「人間はどこまで動物か」の話しと比べて矛盾しているように思われるかもしれませんが、このたった1回の誕生でも生物を多様に進化させていったということこそ大切なことだとみるべきだと思います。


しかし生物の進化は単純な一直線で完成したわけではありません。誕生した生物はそれぞれの環境で自然淘汰と適応によって自らのカタチを変えてきました。特に生き物には個体変異があり、それらの変異の中でも親から子へと伝わる遺伝的な変異があることが自然淘汰が起きる大事な条件になります。
例えば潜在的には個体群をものすごい勢いで増えていくことが可能でも、いろんな資源をめぐる競争があるので実際にはそれほど無制限に個体群を増やすことができません。このいろいろな制約条件のある競争の中で適応度に影響を与えるような遺伝的変異があれば、当然その遺伝の持ち主が多く生き残ることになります。この適応度に影響を与えるような外的要因(つまり生き物をとりまく環境)を淘汰圧といいます。この淘汰圧にさらされて種が絶滅してしまうか、それとも個体変異で生き残るかは自然淘汰と適応の問題といえるでしょう。
そしてここで先程の問題とつながってくるのですが、「進化は進歩」ではないということです。どんな生物でも現在生き残っている生物はその種の進化の最先端にいて、それぞれの生物は淘汰圧により常に自然淘汰と適応にさらされて生きているのです。自然淘汰という現象も目的があって起きるわけではなく、「適応は万能ではない」という事実も重要です。変異は環境とは関係なくDNAの複製がランダムに出てくることもあり、それが都合が良い場合もあれば悪い場合もありこれは誰にもどうすることはできません。
人間が考えるような目標をもって生きているという価値観を離れるということは、スケールを変えてみることとほとんど同じで、生き物を観察するには必要不可欠なのだと思います。


進化とはなんだろうか (岩波ジュニア新書 (323))

進化とはなんだろうか (岩波ジュニア新書 (323))



「医療のこと、もっと知ってほしい」  山岡淳一郎
最後は医療という人間が生物として生きることができるように進歩してきたもっとも最前線にある学問と、その医療が日本の一地域においてどのぐらい活動しているかについて丁寧に取材されたルポルタージュを紹介します。本書は長野県佐久市臼田に本拠を構えている「JA長野厚生連 佐久総合病院」を中心に、その周りの地域との医療の体制を様々な視点から描いています。最初はドクターヘリから始まり、看護師の仕事、救急医療のこと、終末医療訪問看護師と介護福祉士の仕事、医者不足の問題、そして国民皆保険制度がかかえる危機など医療という仕事は常に人間という生き物の最前線であることを嫌でも感じさせてくれます。
最近では放射線によるがん治療やIPS細胞などの最先端医療に目を奪われがちですが、地域医療の最先端はなかなかマスメディアでも紹介してくれない話題です。いえ、時にマスメディアの報道で地域医療が崩壊することもあります。僕の住んでいる奈良県の医療体制はかなり貧弱で、大淀町立大淀病院事件が取り沙汰されて以降もまったく改善の見込みがないことに驚くというよりも肌で危機感を感じるレベルです。
それに比べてみると「佐久総合病院」の取り組みは本当に地域医療の最先端なのだと感心しながら本書を読み進めました。医者は医者として出来る仕事をこなし、看護師はそのサポートにしっかりと入り、さらに介護福祉士とも連携して高齢化していく状況に対応していく体制ができていることは本当に素晴らしい取り組みといえます。
それでも他の地域と同じように医師不足やそれによる救急医療が危ないこと、さらに職員の過重労働がひどくなってきているようです。さらに終末医療という最後に人が死ぬ時はどうすればよいかという問題も、少子高齢化にともないいっそう大切な事になってきています。
そして医者になるということはどういうことかについてこと細やかに説明もしてくれています。単純に医者になることが大切なのではなく、なぜ医者になることかやフィリピンのセブ島にあるSHSというメディカルスクールの例を通じて考えさせてくれます。医者になりたいという学生だけでなく、今ある日本の現状の医療のあり方について知りたい人にもオススメの1冊です。


医療のこと、もっと知ってほしい (岩波ジュニア新書)

医療のこと、もっと知ってほしい (岩波ジュニア新書)