方法序説  デカルト 著  谷川多佳子 訳

お久しぶりです。8月中はなんとなく本を読む気が起こらずにアニメーションやマンガを中心に見ていて読んだ本の数が少ないですが、今回から溜まっていた本の書評を再開していきます。
しかしまたブログを書くことがとぎれとぎれになったりすると思いますが、それはご勘弁下さい。僕は精神にムラのある人間な上、どうせ書くなら読むに足る書評を書きたいと思っています。稚拙な所があるならぜひ指摘して下さい。どうぞよろしくお願いします。


さて今回はデカルトの「方法序説」です。「我思う、故に我あり」(コギト・エルゴ・スム)という名文句であまりに有名になってしまった本ですが、序説という言葉が指し示す通り本当は数百ページある大書の前書きでした。そして現代思想の立場ではデカルトの方法論や真理に対する追求がボロボロに批判されていますが、この本書の出版が中世ヨーロッパと近代ヨーロッパの思想をつなぐ架け橋のひとつになったことは間違いなく、また近代の思想に大きな影響を与えていたことは疑いありません。

まずよく知られていることは論理学や数学などで真理を追求する手法を、4つの規則に当てはめたことでしょう。

第一は、私が明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意深く速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。[注:明証性の規則]
第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。[注:分析の規則]
第三は、わたしの思考の準備にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しづつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。[注:総合の規則]
そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。[注:枚挙の規則]  p.28-29


ここで規則に当てはめているのは現代の数学だけではなく、スコラ哲学によって天文学、音楽、光学、力学も「数学」とされていました。デカルトは、しかしこの規則を見出したからといっていきなり真理を突き止めたと考えてはいませんでした。むしろここから徐々に、「我思う、故に我あり」に向かって行きます。


デカルトは、人間はあらゆることを考えるけれどだれであっても間違いは犯すし、真であることがひとつもないことを想定しました。しかしこのようにすべてを偽だと考える間もわたしがあることに気づき、わたしは必然的に何ものかでなければならないことに気づきました。そこで「我思う、故に我あり」ということが真理であると考え、自らの哲学の第一原理に設定しました。
さらに何ものかでなければならない自分は、いま存在している魂と身体(物体)に区別することができ、たとえ身体がなくとも自分の本質(魂)に変わりはないと確信しました。

このようにデカルトはきわめて明証かつ判明に捉えることはすべて真であることを一般的な規則にしてもよいとしました。これはそれまでの小難しいスコラ哲学などの学問を一刀両断して、明晰にわかっていることはわかっている以外ないという近代の思想を先取りしました。しかしそれが現代になって批判の対象になっているのは皮肉と言えるでしょう。



余談ですが、デカルトはまた単純な真理研究のための方法論を記した思想家ではありませんでした。松岡正剛著「遊学1」のデカルトの項目ではこのようにあります。
「探求すべき事物の系列に於て、我らの悟性の充分に直感しえぬ何ものかがあらわれたのならば、そこに停まるべきである([第八 精神指導の規則]より )」
ここにはデカルトが禅の思想とのつながりがあるように僕は思います。


P.S. この記事の途中に、本書の46ページから48ページにわたってそのまま引用している箇所があります。

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)