大森荘蔵 哲学の見本  野矢茂樹

本書「大森荘蔵 哲学の見本」は、東京大学で哲学を教えていた哲学者である大森荘蔵氏の思想について紹介したものです。しかしただ単純に思想を紹介するだけでなく、著者の野矢茂樹氏の批評や、前期・中期・後期と区別される大森哲学の一貫性を説いていたりするかなり意欲的な本です。
しかし以前丸山眞男廣松渉の時のように、今回も哲学者の思想なんてものを単純にまとめることができないので、もっとも重要だと考える箇所と自分が興味をもった哲学問題について述べることにします。


著者の野矢氏はまず以下の引用から本書をスタートさせます。

私達がその時その場で閉じ込められている狭い局所以外の事について、考えたり、話したり、思ったりする事を、広い意味で想像と言うならば、私達の生活の大部分は想像によって占められている。私達は絶えず遠い国の事を、忘れた品物を、今居らぬ人の事を考え、心に浮べ、噂する。科学者は見ることのできぬものについて計算し、探検家はまだ誰も見たことのない山について夢想する。子供達はありもせぬ戦車を待伏せ、虚空に並ぶ中隊を突撃させ、発射されぬ弾にうたれて名誉の戦死を何回でもとげる。これらの事に何も不思議はないし、又、誰も不思議だとは思わない。
然し、この滑らかな想像機能が、或方の哲学問題の中では、突然停滞したり、スリップを起こす。この時、想像は非常に危険なものになる。時には致命的なものになる。この想像の危険地帯の一つは、ほぼ同型の哲学問題の一群から成っている。知覚の問題、構成概念の問題、他我の問題、過去の問題等がそれである。之等に共通な性格は、その各々が普通、経験と呼ばれる範囲の外にあるか、外に出てしまった事柄についての問題である点である。(「類比による想像」[1]212) p.8-9


この「知覚の問題、構成概念の問題、他我の問題、過去の問題」は、大森氏が一生をかけて絶えずゆり動きながら思考をし続けた問題群で、全編目を通した僕から見ても最後には結局これらの問題群に戻って来るのだなと思ってしまいます。しかしだからといってこれらを問い続けた大森氏の思想は独創的な箇所がいくつもあって非常に魅力あるものとなっています。


ぼくが本書を読んで一番興味をもったのは、「立ち現れ一元論」と呼ばれる考え方で、二元論を否定してそこから乗り越えようとした「中期」大森氏がに考えていた思想です。
例えば「立ち現れ」の一つである「虚想様式の立ち現われ」についての文章を引用します。

二つの視点を同時にとることは、原理的に不可能である。知覚はある一つの視点からのものでしかない。それに対して物は無数の視点から知覚されうる。私は、いま現在において、特定の一つの視点をとりつつ、同時に、それが他の無数の視点からの可能的知覚に開かれていることを了解している。これら、一つの物についてのただ一つの現実的知覚と無数の可能的知覚は、すべて同時のものである。だとすれば、いま現在の現実の知覚に伴う他の無数の可能的知覚の思いは、厳密に言えば私に観察可能なものではない。私は、私には原理的に観察不可能ないま現在の背面の思いを、その物にこめているのである。 p.98

これは「虚想」という現実ではみれないけれども存在していると仮定できる思いがこの「実」の世界で「実」の働きをするというのが「思い的に立ち現れる」ということになります。この「思い的に立ち現れる」と「知覚的立ち現れ」を組み合わせることによってさらにテーゼが広範囲に拡張して、世界のじかの立ち現われという一元論に集約されていきます。


これはあくまでも大森哲学の「中期」までの思想であって、全部の期間を含めた大森哲学ではありません。しかしこの「立ち現れ」はかなり重要なテーゼの一つだと感じ、また一元論としてこういう考え方があったのだととても参考になりました。


最後に書いておきたいことは大森氏と廣松渉との関係です。一度大学に失望した廣松氏を大森氏が東大に呼んで、そして二人は多くのゼミ生の前でずっと哲学の討論をしていたそうです。*1どうやら「知」というものは簡単に完結したものではありえず、討論や議論、あるいは団欒した状態での何気ない会話の中に「知」のダイナミズムがあることを示してくれます。


大森荘蔵 -哲学の見本 (再発見 日本の哲学)

大森荘蔵 -哲学の見本 (再発見 日本の哲学)