丸山眞男 理念への信  遠山敦

丸山眞男といえば政治学や日本の思想学を学ぶ上では超重要視されている知る人ぞ知る人物です。今回はこの丸山氏が持っていた個人的な思想・信条・理念を多くの著述と著作から推測しつつ、有名な「古層」における宗教の影響についての鋭い分析を加えていることを指摘します。本書のことを丸山眞男の行った多数の研究を知るための入門書とみてもいいでしょうし、丸山氏の「古層」に対する日本仏教の分析に著者独自の研究があるとみてもいいでしょう。僕自身が今まで読んだ丸山眞男の本は「日本の思想」ぐらいで、丸山氏の政治研究や思想研究に詳しいわけではありませんが、本書を読んで改めて丸山氏の切れ味鋭い政治思想分析と、理念もしくは「イデー」に対する確固とした信を感じます。


本書をまとめるように紹介すると、とんでもなくたいへんなことになるのでそれぞれ詳しいことは本書を読んでもらったほうがいいでしょう。ここでは丸山氏の「理念」や「イデー」というのはどういうものだったのかについて触れるだけにします。
丸山氏はまず「理念」とは自然的傾向性の「流れに逆らうこと」だとします。そうして自分と現在から相対化して考え、自然的傾向性との距離や緊張状態を作り出すことで「理念」に「賭ける」ような心理こそ、丸山氏の切れ味するどい思想の源泉になっていることを指摘します。

しかし自然的傾向性に逆らうことなんてことをしようとするなら「超越的絶対者」への帰依でもなければできることではありません。丸山氏の文章を長文ですが以下に引用します。

自然的・直接的な人間関係の絆を断たずには、経験を超えた絶対者への帰依(Hingale)は生れない。逆に、超越的絶対者へのコミットメントなしには、そうした直接的・自然的人間関係への依存から解放された自律的個人は生れない。「人にしたがわんよりは神にしたがえ」という『使徒行伝』の命題、「依法不依人」という命題、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」[福沢諭吉]という命題が内包している社会的意味は等しくこの点にある(宗教的立場のちがいを超えている!)。目に見えない権威への畏敬を知らないものは、結局、権力、目上、上役、世論等々、目にみえる権威に屈服する。principleをもつということは、真理と正義という見えざる権威への忠誠を以て(千万人をいえど、われ行かん)、自己が具体的・感覚的な力関係に左右されたり流されたりしないための支えとすることにほかならない(主体性)。これが主体的人格をいうことであって、内部のエネルギーを外部的権威に抵抗してぶつけていくことだけでは、主体的とはいえない。(録4-266~267) p.14-15


この文章には丸山氏の「理念」の底にはキリスト教福沢諭吉が深く関わっていることがわかりますし、超越的絶対者へのコミットメントによる解放によって主体的人格を確保しようとしたことだ分かります。さらにこの丸山氏が言う主体性についてさらに引用を続けます。

彼によれば「主体性」とは、「異なった目標から一つを自主的に選択する、つまりディレンマに立ったときの自主的決断」(録4-66)の能力、あるいは「自らの前におかれた多元的価値からの自主的な選択能力」(録6-19)であり、そうした「選択」や「決断」に「principle」を与えるものが、「見えない権威」をしての「理念」や「超越的絶対者」なのである。これに比べれば内部的なエネルギーの爆発は、無方向な「感覚的解放」(集3-161)に過ぎないとされる。 p.15


これは言い返せば「理念」や「超越的絶対者」に裏付けられた「principle」から与えられる自主的な決断・選択が「主体性」に他ならないことを意味しています。このような強靭な理性への信があったからこそ自らの思考の一貫性を保ちつつ、自らの思索に立ち向かったのです。


丸山眞男――理念への信 (再発見 日本の哲学)

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日本の思想 (岩波新書)

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