廣松渉 近代の超克  小林敏明

さて今回も前回に引き続いて『再発見 日本の哲学』シリーズから哲学者廣松渉を紹介します。廣松渉といえば難渋な文体で知られる日本の哲学者で、この方も前日の丸山眞男のように知る人ぞ知る人物です。僕は廣松渉の本を「今こそマルクスをよみかえす」しか読んでいないので、またもや詳しく説明をする能力がありません。それなので今回も一部をかいつまんで紹介する程度に留めておきます。本書を執筆した小林敏明氏は廣松渉の弟子にあたる方で、以前にも廣松氏の回顧録も書いた廣松渉思想のプロフェッショナルです。そんな著者なので本書もコンパクトかつ廣松渉という独特なスタイルをもつ思想家をとても上手に説明してくれます。


そこで今回紹介しておきたいのが、マルクスの考えと廣松氏自身の思想のつながりについて書いておきたいと思います。廣松氏は一般ではマルクス主義者・唯物論者で、もはや見るべき価値のない哲学者のように思われている人物でもあるのですが、実際にその思想を読んでいくと一般で思われているマルクス主義と廣松氏のマルクス主義は別物であることがわかります。実は最近思われているマルクス主義と実際のマルクスとの間に大きな隔たりを感じ始めたので、僕はそれまでのマルクス主義との違いを「原マルクス」などと新しく言葉を作ることで考えることがあります。廣松氏の「今こそマルクスをよみかえす」でそれを痛切に感じたこともそのように考えるきっかけになりました。
マルクスを語る上で重要なのことのひとつに「労働」と「生産」があります。これを廣松氏はどのようにマルクスを読んで考えていたのでしょうか。以下に長文ですが引用します。

ある仕事に従事すれば、一定の賃金が得られる。そしてそれを多く行えば行うほど、より多くの賃金が得られる、と人は考えている。しかしそこに錯覚のもとがある。わかりやすい例を挙げよう。一人の人間が汗水たらして作った米を売って得たきんがくと、別の人間がわずか数分の電話取引で得た株売買の利益との間に、なぜあんなに理不尽なまでに極端な差が生ずるのかを考えてみればよい。「価値」がけっして単純な人間の労働量などで決まっているわけではないことが一目瞭然のはずである。価値の決定基準はむしろ、マルクスの言葉で言えば「総労働に対する生産者たちの社会的関係」にあるのだ。ひとりの人間の「労働」行為ではなくて、はじめから関係の網の目に組みこまれた人間たちの「総労働」から逆規定的に個々の労働の「価値」が決められてくるのである。マルクスはこういう事態を「取り違え Quidproquo」と呼んだが、この「取り違え」のゆえに、あたかも「抽象的人間労働」が「凝結」するように見えてくるのである。これがマルクスのいう商品の「物神的性格」にほかならない。 p.84-85


さらに廣松氏(正確には小林氏の解釈)の考えを引用しましょう。

この論議の仕方で重要なのは、「価値」が成立する世界にあって最初に立てられてのは、旧来のマルクス経済学が前提をしていたような一個の人間の主体的行為としての労働ではないということである。そうではなくて、まず社会的諸関係の総体としての総労働が立てられているのだ。労働生産物すなわち商品が「感性的でしかも超感性的」な存在として現われるのは、この「関係の一次性」を基盤にしてのことである。マルクスの言葉で言えば、「人びとの目に物と物との関係をいう幻覚的な形態をとって現われるのは、人びと自身の一定の社会的関係にほかならない」 p.85


そしてここから廣松氏はマルクスの関係論的パースペクティブに目をつけて、物と物が最初にあるのではなく関係があって物が生まれてくるということを考えます。上記の引用にあるように「関係の一次性」に対する注目が、「物象化論」や「四肢構造論」という思想を発展させていったのです。


最後に指摘しておきたいことがひとつあります。それは廣松氏と前日の丸山氏との対比です。廣松氏も丸山氏も近代という時代に対して自らの態度を一貫して思索していながらも、まったく違う思想にたどり着いていることです。丸山氏の場合は「理念」と「超越的絶対者」に保証された「主体性」が決断や選択をできることで自らの思想を形成し、そこから日本の「古層」、政治と個性などを思索していきました。それに比べて廣松氏はマルクスの考え方を受け継いだ唯物論を生涯貫くだけでなく、そこから独自の思想を作り上げたところに特色があります。そしてマルクスが示したような近代を乗り越えるべきものだと捉えていたのではないかというのが著者の小林氏の意見ですが、僕はこれについて語るべき言葉を持ちあわせていません。 


廣松渉-近代の超克 (再発見 日本の哲学)

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今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

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