最後の親鸞  吉本隆明

親鸞という聖の晩年から彼の思想を解き明かそうとする、一種のアクロバティックな思想本。もとは叡山で修行していた親鸞が、叡山を降り、六角夢告の後、法然の元で浄土思想を極めようとする。しかし法然一派の活動が後鳥羽上皇の怒りに触れ、親鸞は越後に配流されてしまう。しかしここから親鸞が独自の思想へと向かう契機になったのだ。


著者の吉本氏は配流後から最晩年に位置する親鸞からその思想を解き明かそうとする。親鸞は、<知>の頂を極めたところで、かぎりなく<非知>に近づいていく還相の<知>をしきりに説いているようにみえるという。


しかし、それは<無智>とはかならずしも一致せず、紙一重の深い深淵が横たわっている。<無智>にいる人々こそ浄土の理念からもっとも遠い存在であり、だからこそ絶対他力を媒介として信ずるよりほかのどんな手段も持ち合わせていない。阿弥陀仏という絶対他力な存在による<契機>によって悪人とされてしまった人間にも、浄土への道が開かれているのだ。


しかしそれは晩年の親鸞にとって必ずしも理想とした世界ではなくなっている。親鸞は念仏を唱えても、嬉しい気持ちにもならないし、すみやかに往生をとげて浄土へゆきたい気もおこらないと語っている。それは人間が<煩悩>をもっているせいであると応えているのだ。


これは称名念仏を唱えることで浄土へと行けるという考え方や信念を構造的に極限まで引き離し、解体させようとしたのだと吉本氏はいう。つまり、なにが善であり、なにが悪であるか、ということは如来が決めることであり、じぶんで「浄土へ行くだろう」とも「地獄へ行くだろう」と決めてはならない。そのような真実の中、ただ念仏だけがまことである。


ここにおいて最後の親鸞を訪れた幻は<知>を棄て、称名念仏の結果に対する計らいと成仏への期待を放棄し、まったく愚物となっておいたじぶんの姿だったかもしれないという下りは、どことなく「最後の吉本隆明」を彷彿とするのは僕だけでしょうか。親鸞とどこか接近しながらも、離れていった吉本氏に対して、この文章をもって追悼したいと思います。


最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)