遊学 1・2  松岡正剛


この「遊学」という本を読むのは大変だった。なぜならこの本を読むのに、合計2冊強のノートをとりながら読み進めたからだ。最初の100ページまでは普通に読んでいたけれど、ふとこのままではこの本を読んだ気にならないぞと思い、ノートを作り出した。理由はわかっている。僕が「遊学」を読むには、あまりにも記憶力が悪いからだ。


その結果わかったのは、まず「遊学」にはムラがあるということだ。はじめから自由気ままに考えて書いているせいだろう。ある人物の項目にかこつけて、自分の言いたいことを言っているだけのようなところもある(アンリー・ミショーなど)。そうかと思えば、物理学の時系列をならべたり、人物の経歴をざっと述べたりするのだ。


この「遊学」の読書体験をたとえると、霧の深い夜の森を歩かされているが、光はところどころ灯っていて、それをたよりにふらふらと引き寄せられるようなもの・・・だと想像した。その中ではセイゴオ先生のおもちゃ箱もあれば、科学実験、哲学講義、文章をバラバラにして新しくつなげてみたり、言葉遊びもある。


実際「遊学」とはどのような内容なのかについては、読書メーターで少し書いたので、そちらを参考にして欲しい。この文章を読んで、松岡正剛という深い森を体験したい方はぜひ一度読んでみて下さい。



P.S. 読書メーターで書いたことを再掲しておきます。

あれからさらに一冊強のノートを出して、ようやく読むことができた。「遊学」を全体としてみると茫洋とした雰囲気が紙面に漂っていて、内容の濃さと次々に編集するセイゴオ先生独特のリズムを存分に楽しむことができるだろう。しかしセイゴオ先生が書くひとりひとりを見ていくと、「遊学」の姿が変わってみえるのだ。そう、プリズムに反射する光のように。


実はその茫洋とした中にも、本流とも言うべき筋が貫かれているのだ。それは「存在・存在学(ontology)」だ。すべての項目に関わっているわけではないけれど、「存在」は重要なテーマだ。中でも宗教、哲学、数学、物理学、天文学に関わる人たちの項目は、よりダイレクトにセイゴオ先生の「存在学」に結びつけられている。この「存在学」には量子力学の最先端から、科学として固められていないオカルトと科学の狭間をも扱っているという、実にアブナイ橋を渡る。たとえば数学者ヘルマン・ワイルの項目で、その危なっかしさを体験できるだろう。セイゴオ先生はワイルで、書物とは一本の注射器でなくてはならないと書いていたが、まさにその通りだった。


まだ「遊学」の怖いところを付け足しておこう。それは、「編集による新しい関係」を作ることだ。たとえば哲学者ホワイトヘッドの概念である「抱握(プリヘンジョン)」を華厳教「過未無体」、仏教「三世実有」を結びつけた時、とても驚かされた。このようにいともたやすく日本と西洋の哲学を簡単に照らし合わせることは、本当にできることじゃない。その他にもセイゴオ先生独自のつなげ方があって、とてもじゃないがすべてをノートに取ることができなかった。なんだか怖さばかり強調してしまったので、ここで書いてあることは忘れて自由に読む方がいいかもしれない。濃厚な体験になることは保証します。



遊学〈1〉 (中公文庫)

遊学〈1〉 (中公文庫)

遊学〈2〉 (中公文庫)

遊学〈2〉 (中公文庫)