「わかる」とはどういうことか -認識の脳科学- 山鳥重

普段わたしたちは何気なくいろいろなもの五感を通して感じている。しかも感じているだけではなく、それらの感覚がなにを意味しているか判別し、理解している。ではそんな複雑な作用である「わかる」はどういう時に行われて、そして「わかる」こと自体を理解できるのだろうか。

通常の場合、知覚は2種類にわけられる。

五感に入ってくる心像(区別された対象の心像)と、その心像が何であるかを判断するための心像(心が所有している心像)です。
前者を知覚心像、後者を記憶心像と呼ぶことにします。 p33


知覚はまずまわりの現象を五感を通じて取り込み、脳の神経系で情報を処理する。そして処理されて組み立てられたもののうち、意識化できるものを知覚心像と呼ぶ。
記憶心像はその名のとおり、外の世界になにも起こってなくてもひとりでに心にあらわれる心像のことだ。これは繰り返し刺激し合った神経細胞ニューロン)が、ニューロンの網目状(ネットワーク)を構成した結果、生まれてくる心像なのだ。
人はただ見ているのではない。目に入った神経情報を、知覚心像として作り上げるからこそ見えている。そして知覚心像でわかることを、記憶心像が意味や形質を与える。こういう作用によって人は「わかる」ことを繰り返しているのだ。


こうして蓄積されたものが記憶として人に刻まれる。この記憶も種類がいくつもある。たとえばまず「個体としての記憶」と「種としての記憶」が上げられる。「個体としての記憶」は、わたしたちが意識にしやすい記憶(陳述性記憶)だけを意味しない。普段意識してなくともなんとなくおぼえていること、つまり手や体が勝手におぼえているような記憶(手続き記憶)も含まれている。
「種としての記憶」には情動反応や反射が含まれる。これは生まれたときすでに人に備わっている記憶だ。ながい生物の進化で発達した神経系が遺伝子の中に組み込まれ、情動反応や反射がその遺伝子のひとつとして記憶されたのだろう。これらの上にわたしたち人間が成り立っているのだ。


著者である山鳥重氏は、記憶障害、失語症認知障害の専門家で、それらの患者さんとの診察から人間の認識について考えられておられるようだ。脳に障害のある患者さんは、わたしたちがあたりまえに行っている認識や理解ができない。たとえば大脳の一部に問題があると、腕を「伸ばす」や「曲げる」という言葉に対応する動きや、変化のイメージを呼び出せなくなってしまう。
ここで書いたのは、人間のもつ認識能力の基礎中の基礎だけど、それらは脳が障害を負うだけで簡単にくずれてしまう、すごくもろいものだ。それだけでも、普段のないげない行動、思考、仕草は、複雑でフラジャイルなものの上に漂っていることが「わかる」。

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)