流れる星は生きている 藤原てい

流れる星は生きている (中公文庫)

流れる星は生きている (中公文庫)

ある日、国家が崩壊したときの物語。


物語とカンタンに言ってもいいものだろうか。藤原一家や日本人の体験した凄烈な苦しみに対して、戦後も遠くになって生まれた身としては、このように語ることはおこがましい気がする。


満州新京に住んでいた、新田次郎藤原てい、子供の正広、正彦、そして生まれたばかりの咲子は真夜中にたたき起こされる。観象台で働いてる新田が、突然呼び出されたからだ。本書はここから始まる。いや、すべての在外邦人の物語が蠢動しだすのだ*1。 


本書では日本人の良いところや悪いところが、吹き出している。藤原ていは、今まで軍で威張っていたやつが敗戦をののしる様をみつけては、まったく日本人が変わっていないことを確認する。そしてそういう日本人が、日本を戦争に導いていった。さらに女性社会の悲喜こもごももうかがわせる。彼女たちは悪口を言ったり言われたりするのにうんざりしながらも、団結したり、けんかする。本書では彼女たちがギリギリのところでとどまり、なんとか生活を維持していく。


しかし本書から伝わってくる、もっとも強い情感は母親と子供の関係だ。母の子供に対する愛情が、いかに愛憎に満ちているかを物語っている。愛するということは、静かなるやさしさだけではない。時に激しい憎しみとなって、子供や、母親自身を食い殺す。継子を愛せない、狂人になる、他の家族に嫉妬する、夫や子供のために奔走する・・・今でもこのようなことは、日常の中に潜んでいる。本書はその縮図だ。


彼女たちのような物語は、当時それほど特別なことではなかった。こんな話がそこら中にころがっているひどい時代だった。なにより日本本国は、アジアに拡散していた日本人の復員に必死でもあった。赤塚不二夫朝比奈隆水木しげる山口淑子は生き延びた幸運な例だが、川島芳子は射殺された。BC級戦犯とされた人たちも、連合軍や現地民に殺されていった。なにより名前が知れずに死んでいった人たちは、どれくらいいるのだろう。


このような物語が戦後民主主義の源流となっていったのだが、今やそれは変質し、色褪て、ただただ朽ちていくばかり。今も当時のように、未来への道筋はまったくみえてこない。それとも新たな母と子の物語が、目に見えないところで胎動しているのだろうか。