「異説 現象としての空気の構造」

「異説 現象としての空気の構造」

今回は「空気」というものを日本的特別性を帯びたものというのではなく、集団的意識・無意識が成り立ち、それが「空気」として存在できる可能性について述べていきます。つまり「空気」というものはある程度普遍性を帯びたもので、それが日本の場合どのように機能してきたのかという問題提起が以前書評した「「空気」の構造」でありました。
しかしコメントで頂いた「個人の認識・意識・無意識の関係を元に「空気」をつくっており、集団的無意識というものは教育の結果集団的として認識されている」というご指摘を受け、改めて書評の域を超えて個人の認識から他人の認識、そして集団として捉えられる意識の可能性について意見を言うべきでないかと考えた次第です。(ご指摘をかなり単純化しました。原文を知りたい方はこちらをご覧ください)

まずは後期フッサールの経験の地平構造による連関で構成される<世界>とは何かをみてみましょう。

認識であれ生活上の実践であれ、われわれの対象についての経験は、決してそれだけで完結したものではなく、つねに潜在的な地平をもっている。...こうした地平は、対象を取り巻く外延的空間の方向へも、また、その対象そのものの性質や部分的契機といった内包的な方向へも、さらには時間的地平としても展開されうるわけであり、それらはさまざまに含み合い基礎づけ合い複雑に錯綜(さくそう)している。 「現代の哲学」 木田元 著 pp.74 

現代の哲学 (講談社学術文庫)

現代の哲学 (講談社学術文庫)

フッサールはこれらすべての地平を包括する全体を<世界>と呼ぶのですが、それは存在者全体のことではなく、経験の根本構造という意味で使っているのです。
ここから様々な地平に経験は広がり、集団的意識・無意識にまで延長できる可能性をもっているのはないでしょうか。たとえばマスコミがある精神異常者がなんらかの犯罪を行い、それをテレビなどを通していろんな人が知ります。その事件に対しての反応は様々でしょうが、精神異常者に対する犯罪を「怖い・怖くない」という2項対立にした場合、どちらが多数派・少数派に関わりなく、自分自身の反応(リアクション)があります。ここで単純な2項対立にしましたが、実は犯罪に対しての人間の反応は驚くほど単純な場合が多いのです。(いまでは体感治安なんて言葉があるんですね)
この「指数治安」と「体感治安」の違いは、個人がマスコミや警察の宣伝の影響によって勘違いしているだけでしょうか?個人に対する啓蒙が足りないし、個人の勉強不足により起こっている現象とみなすこともできますが、どうにもそれだけでは説明できていない部分が残っているように感じます。
最初は個人の経験・反応が始まりでも、それがまわりに拡がるにつれて経験と反応が差延エスカレート)され、ついに集団的意識・無意識とみなす段階(レベル)に到達し、それが「空気」として認識(この認識にはなんとなくも含まれる)され、それが逆に個人の経験と反応に影響を与えていると見ることはできないでしょうか。


さて話が多少ずれましたが、もちろんこれだけでは集団的意識・無意識による「空気」の成り立ちの説明には足りないでしょう。
次は複雑性科学からこの検討を進めましょう。

われわれ人間は嗜好、思想、信条、行動に関してはたしかに複雑だが、個人としてのわれわれ一人一人を複雑な存在にしている事情は、大勢の集団に組み込まれたときには大して重要でない場合が多い。一人一人の正確にはさまざまな差異があるが、十分な人数からなる集団の内部では、そうした差異もある程度相殺されるので、集団全体としては個人間の違いがあまり問題にならない行動の仕方をする。 「複雑で単純な世界」 ニール・ジョンソン 著 pp.110

複雑で単純な世界: 不確実なできごとを複雑系で予測する

複雑で単純な世界: 不確実なできごとを複雑系で予測する

ニール・ジョンソンの思考は複雑なものを単純に整理しようというもので、個人の認識を脳と遺伝子の機能から出発している方にはあまりに単純化しすぎていると思われるでしょう。
しかし事はそれほど単純でもないのです。続けましょう。

人々の集団の行動の仕方は「単純である」ということではない。集団としての挙動は、一人一人がどう振る舞うかをスケールアップしたものにすぎないということでもない。むしろ、その正反対だ。そもそも、交通渋滞や金融市場の暴落といった創発現象が示す挙動は、基本的にはどんな特定の個人の振る舞いも反映していない。ここで提示したいのは、一人一人をとれば、その特質には幅広い差異があっても、彼らが属すそれぞれの集団全体としての振る舞いは、多くの場合、きわめて似たものになるということである。関係している個々の人々には大きな違いがあっても、日本、イギリス、あるいはアメリカ、オーストラリアで発生する交通渋滞に国による差異がないように見えるのも、同じ理由による。


...これが、こうした複雑性で生じるパターンが非常によく似たものになる理由の一つで、専門用語を使って、創発現象には普遍的な性質のようなものが見られると言ってもいい。


...したがって、集団全体がとる行動という観点に立てば、個々の人間の一風変わった行動も集団内ではある程度まで互いに打ち消し合ってしまう。 「複雑で単純な世界」 ニール・ジョンソン 著 pp.111−112

さてここまで引用しても、あまりに個人を軽視して集団全体を問題にしすぎるという批判があるかと思われます。しかし個人=集団が差異にして部分的同一存在であり、実際は対立しているのではなく、サイバネティックスフィードバックループで形成されていると考えれば、個人でもあり、集団でもあり、集団の一部でもあるという関係性に矛盾がなくなるのではないでしょうか?単純なサイバネティックスを考えれば、「個人(認識・意識含む)→社会内環境→(インプット)集団(集団的意識・無意識も含む)→(アウトプット)個人(認識・意識含む)」とみなすことができ、これが同一段階(レベル)において弁証法エスカレーションをともなうことがあれば、違う時間・空間方向にも同じようなカタチ(同時に違うカタチ)のサイバネティックスによるフィードバックがおきていると考えれば、人間の認識・意識は後期フッサールの意味で経験の根本構造としての<世界>が立ち上がってくるのではないか?
そうだとすると集団的意識・無意識が存在する「場」という経験は成り立ち、それが「空気」としても認識(これもなんとなくを含む)されることで人々に「空気」の発見がなされるという経緯を想定することができます。

本当にずいぶんとわかりにくい文章になってしまいました。大変反省したいですね。

しかしこのモデルでは歴史的存在としての「空気」は表現できていません。
そこで最後に「「空気」の構造」の著者である池田氏の説明を借りたいと思います。
池田氏丸山眞男レヴィ=ストロースモデルを借り、以下のようにまとめます。

・表層・・・法律(論理)
・古層・・・長期的関係(慣習)
・最古層・・・集団淘汰(遺伝)  「「空気」の構造」 池田信夫 著 pp.208

さらにダニエル・カーネマン2層モデルを使い、表層がシステム2、古層と最古層がシステム1にあたると想定し、表層の論理が古層の慣習に変化する可能性はあるが、最古層はほとんど遺伝的に決まっていて変わることがないと説明します。
この表層と古層の関係は、上で述べたサイバネティックスフィードバックループによる弁証法的・循環的・パラレル的多元構造としてみると、われわれの意識の中で変化が可能ですが、問題は遺伝レベルの事態は、私達ひとりの人間ではほとんど変わらない層だということです。以前のコメントでは遺伝子レベルによる認識の影響はア・プリオリレベルまでしか言及しませんでしたが、このア・プリオリレベルに影響を与えている遺伝の影響というのは、生物学・心理学で「生まれか育ちか」というずっと続いている論争に片足を突っ込みます。
そして最古層は、表層と古層からの変化は容易ではないということです。最古層は数万年単位で変化が感じられる層なので、ここから個人に対する影響、さらに集団に対する影響があたえる意識・無意識が作るミームなようなものが現状の「空気」になにかしら痕跡を残しているのではないかという仮定での議論しかできないでしょう。
これ以上「空気」にあまり関係なさそうな「深層」に立ち入りませんが、わたしはこれら上記で上げた有機的連関が日本だけでなく、様々な大きな社会・文化・組織だけでなく、同じく小さな社会・文化・組織などにも「空気」が成り立つ可能性を見出すのです。(小さな組織はより個人の振る舞いに「空気」はゆらぎます)

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追記.2014.05.11

本文章を書くにあたって「「空気」の構造」の書評とそれに対するコメントを頂いたことから始まりました。
今回コメントを頂いたminato様から本ブログにもコメントの転載許可を頂きましたので、ここにお礼とともにコメント欄でのやりとりについて参照していただきたいと思います。


・minato様からのコメント
自分はその本を読んだことがないので何とも言えませんが、空気は自分で作り出している道徳的(常識的)で無意識的なものだと思います。人間の脳は人の顔を意識して品定めする前にその人に対する好みを無意識のうちに計算して決定しているそうです。脳は勝手に情報を補完するそうで、空気もこんな感じで無意識的に計算され、決定されているものだと思われます。

 どんな空気を感じるかは人それぞれですが、集団生活になじむにつれて徐々にその差が縮んでいき、あたかも集団が空気を作っているような錯覚をしますが、自分は、自分自身の心こそが空気を作っているものだと思っています。厳密には、集団や環境から得られる情報を脳が補完するというものなので、集団が空気を作る材料となるのは確かですが、それを感じ取る受信機としての心がなければ空気は成り立たないと思います。

 物事に輪郭があるように、感覚的な心の輪郭というのが空気のように思えます。分かりやすくいえば、空気の読めない人は輪郭を意識として認識できない人です。集団生活になじむにつれて、日本は心の輪郭が統一されつつあるのではないかと思います。そういったメタ・コミュニケーションの統一は別に構いませんが、そのせいで自分自身の意見を言えなくなったり、その空気に押しつぶされて何が自分の意見なのかが分からなくなるというのはよくないと思います。

・わたしのコメント
minato様

コメントありがとうございます。
日本的空気だけでなく様々な環境下では独自の集団的無意識というものが社会に埋め込まれており、日本では「空気」というカタチで現出しているのではないかと思われます。
そしてこの「空気」が多くの人の行動を縛り、大企業などの大きな組織から私達の所属する共同体などに対して、必要な改革を制限している部分があるのではないか、というのが私の問題提出です。

minato様は「空気」を自分で作り出した無意識的なものと定義されていますが、ではその無意識を形成するにあたって影響した存在・現象などは一体なんでしょうか。無意識がユングの言うようにすべての意識を接合する夢世界ではなく、あらかじめ人間として習得できる存在としてうまれ、また個人が体験したあらゆる経験(親にしかられたなど(家族内での経験)や近所の人に怒られた(共同体による経験)を通して実は作られているのではないでしょうか?
つまり無意識もまわりの環境に対して必ずしも独立していないと私は考えます。ここで「空気」というのは歴史的存在でもあり、それは本書の著者が丸山真男の「古層」を使い説明しようとしたことです。
minato様が基礎としておられる原子的個人という仮定において、受信ができなければ「空気」は成り立たないとのお考えは正しく、それが出来ない人間は日本の主な社会から排除される結果となります。
しかし一方でこのような空気を読めない人たちが社会で活躍することもたびたびあります(旧日本軍では辻政信は明らかに精神的欠点があるのにかかわらず、記憶力などが認めれれて参謀になっていた)。
日本における「空気」について発言する場合、1.「空気が読める人」
、2.「空気が読めない人」、3.「空気は読めるけど無視する人」に分類して研究しても面白いかと思われます。


・minato様のコメント
自分は、脳が過去の経験やもとから備わっているア・プリオリな情報処理機構によって無意識に情報処理したものを、意識に感じ取らせたものが「空気」なのではないかと思っています。無意識的なものとは言いましたが、認識するにはやはり意識に上らせる必要があると思います。

 自分の言う無意識というのは脳が行う意識のする以外の情報処理機構のことです。つまり個的な無意識であって集団的な無意識というわけではありません。確かに脳の無意識が得る情報は環境から得た情報で、それを処理しているからには独立しているわけではないと思いますし、それが意識に上るときもその情報プラス環境が関わるかと思います。

 ただ、自分は集団的無意識といった、いわば神のような抽象度の高いレベルのものがすぐに存在すると決めてしまうのは早計だと思うのです。自分は集団的無意識というどこにあるかも分からない得体のしれないものからよりも、周囲の身近な環境から個的な無意識というフィルターによって搾り取られた「空気」という情報を得ている、と考えた方がスッキリします。

 つまり、集団的無意識から「空気」が生まれるのではなく、あくまで周囲の身近な環境から得た情報から個人のフィルターを通して「空気」が生まれており、集団的無意識的な「空気」は、あくまでそう感じている個人の「空気」なのです。そして「空気」が読めない人というのは、自身の「空気」と周囲の集団の「空気」が異なっており、ただかみ合っていないだけなのです。つまり、「空気」の読めない人にも独自の「空気」があるということです。もし、多数派の「空気」が集団的無意識による「空気」なのであれば、それは多数派が少数派の「空気」を読めていないと言い換えることができるでしょう。「空気読めよ」と言う人は、空気が読めない人の「空気」を読めていないということになります。

 「空気」に縛られているといいますが、それは個人が感じ取っている具体的な「空気」であって、それに比べて抽象度の高い集団的な「空気」によって縛られているわけではないと思うのです。自分の感じている「空気」が多数派のものであると考えるのは、常識として教育されたからだと思います。

 まとめますと、具体的な「空気」はあくまで個的であり、集団的「空気」は形式的なもので、常識として教育されたがために、個的な「空気」が集団的だと思い込んでいるだけなのだと思います。私たちには、教育されたものを吟味する時間と体力が必要で、「空気」はあくまで自分の作り出しているものなのだということを一人ひとりが認識する必要があるのではないかと思います。そしてそうした「空気」が常識として教育され、多数派になればいいのかなーと思います。まあ、あまりにも自分勝手な個人主義というのも考え物ですがね。



 と、ここまで長々と書いてしまいましたが、価値観は人それぞれなはずなのに、「空気」は集団的で歴史的なものだというのが面白いなーと思いました。その矛盾を解決するために、自分は個的な無意識によって作られた「空気」というのを定義した次第です。できる限り短くしようと努めましたが、こんなに長くなってしまいました……。申し訳ありませんm(__)m

・わたしのコメント
minato様

再びのコメントありがとうございます。
まずminato様のご意見をまとめてから私の意見を述べさせていただこうと思います。
1.自分の過去の経験やア・プリオリに備わった脳の機能から無意識に情報処理したものを意識上に登ったものが「空気」ではないか。
2.あくまで個的な意識であり、集団的無意識などはなく、個人がまわりから影響を得て作ったものが「空気」として認識している。
3.空気が読めていないといわれる人の場合、ただお互いに噛み合っていない。
4.つまり空気読めよという人たちは、空気が読めていない人の空気が読めていない。
5.集団的「空気」はあくまで形式的なもので、常識として教育された結果集団的であると思い込んでいる。

以上でだいたいまとまったでしょうか。
さてこれに対してどのように発言しようと考えてしまいます。あくまで本書で語られる、特別視される日本における「空気」がどのように歴史的に成り立って来たのかを紹介するか、そのともminato様のご意見に沿うように自分の考える認識構造といわゆる「空気」といわれるような現象が生まれる可能性について論じるかで話が全く変わってしまいます。
前者はあくまで本書の書評内でできますが、後者ではわたくしの異説になってしまうのです。もはやコメント欄で話すには大きすぎる話題になっていると思いますので、あらためて記事を作成してそこでわたくしの「異説 空気という現象と構造」としてあげたいですね。


以上のやりとりの後、本稿の粗雑な文章ができました...。

いやはや驚きです

先日より本ブログのコピーをニコニコのブロマガにアップをはじめましたが、コメントしてくださる人や「「ニート」って言うな」の記事の人気さに驚いています。
この記事は他の記事と比べて10倍以上!も閲覧数があり、自分が眠っていた4年間のうちにこの問題が「ニート」という範囲に収まらず、あふれてきているのではないかと考えています。

かつてこの問題を何かしらまとめた物にしたいと言っていましたが、あらためてその必要性を感じています。一種の総記で、統計を元にしつつも「ニート」・低所得ということを否定せずに、その可能性を攻めていくカタチにしたいですね。

もしこの本や資料が役にたつよーというのがあれば、どちらのブログでもいいのでコメントくださいm(_ _)m。


とある患者の適当日記
http://ch.nicovideo.jp/greengoke

「複雑系」とは何か  吉永良正

複雑系」とは何か  吉永良正

「複雑系」とは何か (講談社現代新書)

「複雑系」とは何か (講談社現代新書)


今回も以前読んでいながらも書評できなかった本をご紹介いたします。
複雑系」は一時期たいへん流行った言葉ですが、今では「複雑系」の構造と知見は様々な領域で適用されているように見えます。そのハシリに貢献した一冊が本書であり、複雑系など従来の領域を超える実験を捉えるためにコンピューターが様々な実験・仮定のために使われる時代になったのでした(本書の出版は1996年)。

本書は主にコンピューター上で行う「進化ゲーム」を中心として語っています。この「進化ゲーム」はいまでは時代遅れのやりかたで、この実験を続けている研究者はほとんどいませんが、現在の人工知能フラクタルなどの研究の発展に大きな影響を与えています。

余談ですが「進化ゲーム」はわたしが大変影響を受けた実験でした。特に人工生命体レイン元になったトム・レイの実験については英語版でも概観するなどしていました(今ではちゃんとホームページがあるんですね)。

この複雑性に対する具体的な研究の創始者は、フォン・ノイマンによるセル・オートマトンゲーム理論であり、まわりの格子に一定の論理規則を与えて無限に反復させることでセル(細胞)に見立てる考え方は、その後複雑性を捉えようとする研究者に評価されました。*1

このセル・オートマトンによる進化ゲームを発展させたのはウォルフラムカウフマンラングトンなどで、「カオスの縁」とよばれる変数λ(ラムダ)を挿入したセル・オートマトンの働きが相転移の振る舞いをすることに気づきました。このラムダ変数が0.273を超える値になると安定状態からカオス状態になるという急激な変化が、氷が水に、水が水蒸気に変わるような状態が変わる地点を見つけたのです。
そしてサイエンス・ライター、ジョン・ホーガンは彼らのようなコンプレクソロジストたちの特徴を以下のようにまとめます。

(1)単純な数学的規則の組から、コンピュータは驚くほど複雑なパターンを生み出す。
(2)世界は驚くほど複雑なパターンに満ちている。
(3)ゆえに、単純な規則の組が世界の多くの複雑な現象の根底にあり、コンピュータの助けを借れば、それらを見つけることができる。(pp.113)

複雑系をこのように単純化することはむしろ複雑系を否定することになりますが、カオスと秩序の間については今でも議論の尽きない話題なのです。


P.S. 本書をさらに精緻に読むと、今読んでいる木田元の「現代の哲学」に多く出てくるメルロ=ポンティやかつて読んだポラニーの「暗黙知の次元」など現象学や認識の哲学的思考についても検討せざるをえないので、ここまでにしておきます。サンタフェの研究所とは違う日本の研究者の中でこれらの問題点について気づいた方たちを紹介して本稿を終わりと致します。カオスの生態学としての研究を進める金子邦彦、違うグループの池田研介・大塚建樹・松本健司、さらにまた違うグループでは津田一郎などがいます。カオスを研究する人たちでカオスと秩序の複雑な相関性は以下の言葉にある程度まとめることができるでしょう。「...カオス的遍歴とは、大自由度系、すなわち無数の自由度をもつ系でありながら、有効自由度が変遷していくために、いくつかの秩序状態をカオスを経て遍歴する現象として捉えることができる。自由度の低減が秩序の形成を、自由度の増大が秩序の崩壊を意味する---少なくとも観測者の目にはそう映る---以上、カオス的遍歴とはカオスの縁の内部構造を、生成と崩壊のダイナミクスとして捉えた概念だといえるのである」*2

*1:pp.81-85

*2:pp.167-168

希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学 池田信夫 著

・希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学 池田信夫 著  

希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学

希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学

さて池田信夫氏の本を再び書評しますが、実はわたしは本書を4年前に読んでいながら、書評としてまとめられずに放置していました。
今回改めて書評の形にしたいと思ったのは、本書で語られていることと、最近読んだニーアル・ファーガソンの「劣化国家」との関連性を感じたからです。「劣化国家」については後日書評しますが、本書で書かれていることは希望を捨てるというマイナスな意味での絶望ではなく、どうすれば日本はもう一度立ち上がれるのかという意味を目的に書かれていることです。

池田氏は経済学で重要なことは、政策などで効果的なパンフレットを書くことだとブログで公言していますが、本書は池田氏の具体的な政策提言の言葉を集めたもっとも良き本になっていると思います。

なにはともあれ、まず目次から見ていきましょう。

第一章:格差の正体
1.何が格差を生み出したのか
2.新しい身分社会
3.事後の正義

第二章:ノンワーキング・リッチ
1.社内失業する中高年
2.働きアリの末路

第三章;終身雇用の神話
1.終身雇用は日本の伝統か
2.日本型ネットワークの限界
3.雇用のポートフォリオ

第四章:長期停滞への道
1.長い下り坂が始まる
2.輸出立国モデルの「突然死」
3.希望の消えてゆく国で

第五章:失われた20年
1.どこで間違えたのか
2.90年代をどう見るか

第六章;景気対策の限界
1.財政政策の欠陥
2.金融政策の功罪

第七章:日本株式会社の終焉
1.会社は誰のものか
2.官僚社会主義の構造

第八章;「ものづくり立国」の神話
1.「すり合わせ」ではもう生き残れない
2.ITゼネコンの末路

第九章;イノベーションと成長戦略
1.株式資本主義が必要だ
2.リスク回避からリスクテイクへ
3.イノベーションの意味
4.創造的破壊の可能性


以上を見ると現在日本の構造の明らかな欠点を読み取ることが出来ます。それは世代格差から産業構造、また企業の戦略に国家戦略までいまある危機に適応できていないことを示しています。
本書は4年前(2014から見て)に出版されていて、大手産業による「ものづくり」がもはや日本の外に出て行ったことは考慮されていませんが、格差の正体や長期停滞についてはむしろいま身近にある危機として感じられるのではないでしょうか。

特に格差の意味は単純に新自由主義に求められるのではなく、日本の社会保障の再分配はそれ以前より格差が広がっているという体たらくなのです*1。引用先では貧困層へのレメディーのために、高額収入者に対して課税強化や法人税の増額、さらに消費税の見直しという単純な議論になっていますが、事態はそれほど単純でなく、公的債務の無尽蔵の増加によって現代世代が次の世代の富を搾取しているなど、こちらを立てればあちらが立たずという状態なのです。

本書は様々な指標からひとつの政策だけでは日本の構造は解決できず、また労働者も一度解雇されれば容易に再就職できない現実が逆説的に正社員を絶対視している現実を指摘しています*2

池田氏はこれに対する処方箋として、イノベーションと経済成長を提言しています。イノベーションは単純に技術革新と訳されるのは間違いで、創造的破壊や断続した技術革新という意味がイノベーションという言葉対する正しい意味だと思います。イノベーションの想起から発展において哲学的な意味がありますが、ここでは割愛いたします。

本書の最後では日本人の幸福度が世界標準からみても低く(2010で90位)、実は正社員であろうとその他のカタチの働き方だとしても自分は今就いている仕事が好きだという人は多くないのです。また好きであっても働いている仕事に対するパラノイア的な敬虔さを強制されている(餃子の王将の企業研修をみればわかります)なども考える必要があると思われます。

私達は自分自身で希望を見つけなければならないという構造の中で、選択を迫られているのではないでしょうか。

動画・ゲーム機大戦シリーズ


ゲーム機大戦シリーズはゲームのハードがどのように変遷していったかをわかりやすくもコミカルに紹介した動画です。

第一次ゲーム機大戦
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13492123

はじめはMIDORIKAWA氏が投稿していたものの、第6次大戦で動画制作をやめることになり、その後多くの人が後継として動画を上げました。
その中からKOKE氏のゲーム機大戦動画がMIDORIKAWA氏の後継者のようなポジジョンとなり、内容もMIDORIKAWA氏が作っていた動画によく似ています。

第7次ゲーム機大戦 ポケモン無双編
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20095403


一時期ユーザーの間でゲーム機戦争のようなことが行なわれましたが、ゲーム機を新しく作るということは企業にとっても死活問題だというのがよくわかります。現在パソコンで出来るゲームを中心にプレイしている身としては、ゲーム機戦争から遠く離れてしまっていますが(なんとPS2までしかもっていない!)、その立場から見ると大勢の人間が関わって一つのゲームを作るよりも、少数の才能ある人間が作るインディーズゲームが少しづつシェアを広げていることを感じます。
たびたび話題にする「艦隊これくしょん」も元は少数の人達により運営されていた(今も?)ことを想起すると、ゲームの多様性が広がっていることを実感します。

また私はアナログゲームが好きで、いろいろとボードゲームを持っていたり、クトゥルフ動画からTRPGが好きになったりしましたが、友だちがいないのでまともにプレイしていません(涙)。
今度好きなクトゥルフTRPG動画などをまとめてご紹介したいですね。

「空気の構造」 池田信夫 著

少し前に「KY」という言葉が社会現象になるまで流行ったことがありました。これは「空気が読めていない」という言葉の略語で、まわりの人たちが思っていることを理解できずに勝手なことをしているといった意味で使われました。

しかしこの「空気」とは一体何なのでしょうか?また誰がこの「空気」を決めているのでしょう?
著者の池田信夫氏は山本七平氏の「空気の研究」から、臨在感的把握によってもたらされる同調圧力と定義しています。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

実は以前ニコ生上で空気ってなに?というような放送をして、リスナーさんと討論したことがありますが、その時は「空気の研究」すら読んでおらず、勝手にどうのこうの言っていたのが恥ずかしいです。ともあれ、山本氏は物質への感情移入による臨在感的把握によって起る被支配*1が日本の空気を作った原風景としています。一方池田氏は、かつての村落共同体の水利権の議論を参照して空気が形成してきた過程を説明します。
田んぼで稲を作るにおいて水は必要不可欠なもので、また他の農作物より多くの水を必要とします。この田は誰かが独り占めしていたのではなく、村全体で管理し村の全員に対して平等に水が行き渡るようにすることが重要でした。この秩序を乱したものは村八分として村から追放状態にされ、ほとんどの場合死んでしまう結果になったと考えられます。
水への利害で特徴的なとことは、上(支配階層)から強制されたものではなく、下(つまり農民など)から自生的に作られた秩序であることです。この村の利水権と他の村の利水権を調整するために用水組合が作られて、そこでお互いの村々の利害が調整されました。つまりまず村の中での利害が一致し、次に他の村との水の調整をしなければならないということになります。これはそれぞれの村に方向性を決める決定権があり、その上の立場にある用水組合は利害調整の場として機能してきたことを意味しています。この水への利害調整システムから、池田氏は日本の組織・社会がボトムアップで決められるようになったのは村というタコツボで同調圧力を行ってきたからだと考えます。

その後はいかにこの構造が日本の歴史・社会・経済・軍・経営などに影響を及ぼしてきたかについて述べていきます。丸山真男の「古層」を使って日本がいかに空気という体型を形成してきたかを議論したり、一見トップダウン型に見える組織(軍など)がグダグダになってしまう理由など興味深いトピックが載っていて、なるほどと考えさせられる箇所が多くありました。
「空気」とは何かというだけでなく、なぜ日本はこのような状態なのかを考える一助となると思いますので、日本の構造に興味がある方におすすめしたい一冊です。

*1:「空気の研究 p.72」

ニコニコのブロマガでも記事を書き始めました

ニコニコ動画で動画をみていると、しばしば「話題の記事」として広告箇所に流れているのが気になり、ついクリックしてしまうことが何度かありました。そのためせっかくニコ動のプレミアム会員なんだし、このブログのコピーというか相互関連したブログを新しく立ち上げようと考え、作ってみました。

本ブログで投稿した書評をまとめてアップしましたが、その書評数が100を超え、自分でもびっくりしています。読書メーターの本も加えればさらに増えるのでしょうが、なんだかんだと本を読んでいるんだなーと思いました。

とくに最近は戦前や旧軍関係の本を多く読んでおり、そのあたりもそのうちまとめて文章をかければいいですね。


ニコニコのブロマガ
http://ch.nicovideo.jp/greengoke