無縁・公界・楽 日本中世の自由とその平和 網野善彦

少し前に亡くなられましたが、網野善彦という歴史家がいました。主に平安期から室町時代の研究で成果を上げた方なのですが、彼の歴史観は保守的な歴史学会からは異端とされ、網野氏自身も大学の末席ですごした研究者でした。しかし一方で網野氏の歴史観に影響を受けた人もたくさんおり、中沢新一氏に至っては親戚ということもあり、網野善彦を継ぐ。と宣言しています。


網野氏の歴史観とは「縁」という関係性の裏側には、実は「縁切り」があり、そして「縁」が切れる[た]「無縁」という世界が「縁」の社会と拮抗しながらも存在していただけでなく、そこから豊穣な文化や芸能などがあったのではないかと問いかけたと言えるのではないでしょうか。網野氏は「縁」が切れる場所のことをアジールと呼び、平安末期から江戸時代まで「縁」が切れる場所を紹介します。「縁」が切れる寺や自治都市といった場所は世俗の権力が及ばないアジールになり、特に寺では江戸時代までその自立性をもっていたようです。


「無縁」は主従関係や親族などといった表の「縁」と切れた状態であり、そこから「無縁・公界・楽」の世界へと「無縁」になった人々は入っていき、その「無縁・公界・楽」の特徴まとめると、以下のようになると網野氏は言います。

1.不入権
2.地子・諸役免除
3.自由通行権の保証
4.平和領域、「平和」な集団
5.私的隷属からの「解放」
6.賃借関係からの消滅
7.連座制の否定
8.老若の組織


アジールという場所は表の世界にはない自由性と、未開社会から受け継いだ年功序列の組織(老若)ながらも横の平等性が保たれた社会で、しかも平和で自立した機能をもっている。これではまさに「無縁・公界・楽」の場というのは「理想郷」であり、「ユートピア」と言えます。網野氏は批判は当然承知でこのような「理想郷」を描いたのだろうし、多くの人からみても明らかに踏み込みすぎた説でしょう。しかし日本という存在の底に流れる社会性や文化性を探るには相当魅力的な説になっていることも事実だと思います。「楽」の意味がそのまま甘さをもった言葉として、「公界」が自立的なきびしさを持って「理想郷」をめざす抑圧に断固とした意志の強さを意味する言葉として、「無縁」は古い時代から貧乏、飢餓、孤独をイメージさせる言葉としてとらえられて積極的な理想を意味をしないけれども常に日本に付きまとっていたとして表現されています。そして網野氏は「無縁・公界・楽」を以下のように西洋と日本の思想を対比させながら、日本の深層を一気に書ききります。

もとより、ギリシャ・ローマの市民の民主主義とキリスト教の伝統をもち、ゲルマンの未開の生命力に裏付けられ、中世を通じて深化し、王権との闘いによってきたえられてきた西欧の自由・平等・平和の思想に比べれば、「無縁・公界・楽」の思想は体系的な明晰さと迫力を欠いているといわれよう。とはいえ、これこそが日本の社会の中に、脈々と流れる原始以来の無主・無所有の原思想(原無縁)を、精一杯自覚的・積極的にあらわした「日本的」な表現にほかならないことを、われわれは知らなくてはならない。p.129


これは無主・無所有というマルクスであり、バクーニンであり、プルードンであり、クロポトキンであるアナーキズムマルクスに対する日本からの宣言でもあるのは見逃せないでしょう。


しかし平安末期から室町にかけて成立した「無縁・公界・楽」といった状態も時代が下るに連れて表の権力、すなわち封建領主にその自由性を奪われていくことになりました。とくに安土桃山時代時代の織田信長豊臣秀吉によって、それまでのアジールが少しづつ奪われていきます。江戸時代にはほとんどのアジールが消滅してしまい、男女の縁切り寺も自立的な機能はほとんどなくなってしまいました。そして最終的に「公界」は「苦界」になり、「無縁」な人々は「えた・非人」と被差別部落、その他の漂泊民は自由と引換の陰惨な境涯を強いられて行くことになったというのが「網野史学」がもたらした「無縁」の問題提起でありながらも、権力や武力と異質な「自由」と「平和」への再生の試みでもあったのです。


無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)

無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)